甲子園に帰ってきた中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社
甲子園に帰ってきた中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社

 仲間への熱き思いというものは、心の中にはあっても、それを言葉にするのは何とも照れくさいものだ。思い入れのない、冷静な周囲の人々から見ると「うざったい」「暑苦しい」と取られかねない。

 しかし、38歳になった松坂大輔は、何の躊躇もなく、その思いの丈を、切々と、堂々と、自分の言葉で語り始めた。

「同世代の村田、杉内、後藤。引退表明が続いた。それに対して、自分はもう少し頑張ろうと。彼らの分を込めて『俺はもう少し頑張るよ』と、決意表明の日にしました」

 お前らの分も、俺がやるから--。

 そう誓った限りは負けられない。松坂大輔、38歳の誕生日に見せた95球は、ベテランと呼ばれる老練さと、ユニホームを脱ぐ同級生たちへの惜別と、新たな決意のメッセージがたっぷりと詰まっていた。

 9月13日、38歳のバースデーに、甲子園での先発という最高の舞台が設定された。誕生日の甲子園登板は、18歳の松坂が、AAAアジア野球選手権決勝、台湾を相手に完投勝利を収めて以来、20年ぶり。プロとしての公式戦でも、西武時代の2006年6月9日以来、数えること4479日ぶりの“聖地凱旋”。その時、25歳だった若きエースは阪神に1失点完投勝利を収め、ダーウィンから左中間へプロ初本塁打まで放っている。それからでも、12年という長い年月が過ぎている。

 メジャーで活躍した松坂はその後、右肘と右肩にメスを入れた。昨季まで3年間所属したソフトバンクでは、1軍登板がわずか1試合のみ。「もう松坂は終わった」と、周囲からの限界説も聞こえてきた。それでも、松坂は諦めず、現役にこだわった。そして、今まさに、新天地・名古屋で“復活への輝き”を放ち続けている。そして、今季11度目の先発マウンドは数々の伝説を打ち立てた“かつての庭”だったが「うーん……。投げづらかったです。20年前のような投げやすさは感じなかったですね」。

 そう言って、自分で吹き出した。1998年の甲子園。春も夏も、それは松坂大輔のための舞台とも言えた。横浜高のエースとして春夏制覇。甲子園11試合で11勝無敗。夏の準々決勝は、PL学園との延長17回・250球を投げ抜き、決勝の京都成章戦ではノーヒットノーラン。誰よりも、甲子園のマウンドが似合う男のはずだが、松坂がこの20年間、戦い続けてきたプロの世界は、硬いマウンドが主流になっている。

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4回に“異変”を感じた松坂