それは、松坂と上重の実力差とか、そういう話では決してない。異常な心理状態と雰囲気。自分を見失いそうになる非日常ともいえる空気の中で、類まれなる冷静さと、ピッチングのすごさ、そして、勝負のアヤともいうべき局面をきちんと制していた、松坂大輔という投手の凄さの証明でもあった。

 PL学園は敗れた。それでも、田中は松坂からこの試合、4安打を打った。

「自分にとっても、あの試合はターニングポイントでした。PL学園にとっても、1番最後に輝けたんじゃないかと。PL学園野球部は、今はないじゃないですか。でも、この試合をさせてもらったお陰で、恐らく、PL学園は一生消えないかもしれないじゃないですか」

 田中はその後、1999年のドラフト1位指名で横浜(現DeNA)に入団する。当時は守護神・佐々木主浩(後にマリナーズ)の全盛期。大魔神のフォークも「ストレートと思ったら、ベース手前でワンバウンドしていました。松坂さんのスライダーも消えたんです。曲がった感覚がない。そういう表現しかないんです。野球をやってきた中で、初めて見たボール。それだけ強烈。イメージをはるかに超えていました」。

 1998年センバツでの横浜戦。田中にエンドランのサインがかかった。真っすぐだと思ってバットを出したら、当たらずに空振りどころか、田中の左膝にそのままボールが直撃したという。ストレートだと思った松坂の投球はスライダーだったのだ。

「異次元でした。あの残像が離れませんでしたね」。

 夏は絶対に、松坂さんを打つ。マシンを160キロに設定し、剛球の軌道を目に焼き付けた。あの夏の戦いは、その努力と執念をぶつけるリベンジの場でもあった。しかし、立ち上がりの松坂は疲れのせいなのか、春のような威力がない。「これなら行けるかもしれない」と一回、田中は遊ゴロに打ち取られた後、ネクストサークルの本橋に伝えたという。食らいついた。最後の最後まで戦い抜いた。それでも勝てなかった。「全部、なぎ倒されたんです。第80回大会の夏は、みんなで松坂さんを倒しにいったんです。でも、1人にやられたんです」。

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松坂から得た“大事なもの”を伝えていきたい