阪急の上田利治監督(当時)=1982年 (c)朝日新聞社
阪急の上田利治監督(当時)=1982年 (c)朝日新聞社

 2018年シーズンが開幕して間もないプロ野球だが、懐かしいプロ野球のニュースも求める方も少なくない。こうした要望にお応えすべく、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、80~90年代の“B級ニュース”を振り返ってもらった。今回は「DH制なのに打席に立った投手編」だ。

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 “二刀流”大谷翔平(現エンゼルス)が登場するまでは、DH制下で投手が打席に立つのは、「あってはならない」珍事だった―。

 1982年から指名打者の偵察メンバーが禁止となり、スタメンDHは最低でも一度は必ず打席に立たなければならないルールに改められたが、うっかりこの新ルールを忘れてしまったのが、阪急・上田利治監督だった。

 同年8月12日の近鉄戦(日生)、上田監督は投手の山沖之彦を5番DHでスタメン起用した。

 近鉄の先発が右か左か迷ったことに加え、左打者の加藤英司、ケージがともに打撃不振という苦しい事情もあって、「ついうっかり」やらかしてしまったのだ。

「ルールはシーズン前に読んで知っていたけど、左投手が出てきたら、加藤英を下げて河村(健一郎)、とばかり考えて、すっかり忘れてしまった」という。最初の打席で山沖に代打を送れないと気づいたときには、すでに後の祭りだった。

 しかも、悪いときには悪いことが重なるもので、阪急は1回表に1死満塁の先制機をつくった直後、よりによって、山沖に打順が回ってきた。

「いきなり“行け”と言われて、本当にびっくりした」(山沖)

 長池徳二コーチから「とにかく速球を思い切り引っぱたけ」と即席の指示を受けて打席に入ったが、近鉄の先発左腕・鈴木啓示の前に1-2からあえなく見逃し三振。後続も倒れ、せっかくのチャンスも無得点に終わった。さらにその裏、先発・永本裕章が1点を失い、流れは近鉄ペース。

「もしあのまま負けとったらと思ったら、冷や汗が出てきたぜ。完全に僕のチョンボや」(上田監督)

 だが、このハプニングが打線の奮起を促し、阪急は3回に逆転。終わってみれば、15安打、5本塁打の猛攻で13対5と大勝するのだから、世の中何が幸いするかわからない。

 試合後、「今日の殊勲は山沖や!」とナインが声を揃えると、上田監督も腹を抱えて大笑いだった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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