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「DH制」なのに投手が打席に… “珍事”が生み出したドラマ

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久保田龍雄dot.
阪急の上田利治監督(当時)=1982年 (c)朝日新聞社

阪急の上田利治監督(当時)=1982年 (c)朝日新聞社

 それから8年後の1990年。山沖は期せずして再び打席に立つことになる。まさに「因果はめぐる」である。

 同年9月19日の日本ハム戦(東京ドーム)、オリックスは7回表、指名打者・門田博光が四球で出塁すると、弓岡敬二郎が代走に送られ、そのままショートの守備に就いた(記録上は代走→DH→ショート)

 この結果、DHがなくなり、代打・熊野輝光に代わって先発投手の山沖が「9番投手」としてオーダーに組み込まれた。

 この回の攻撃は熊野で終了していたので、残る2イニングで9人目の山沖まで打順が回ってくる可能性は低いと思われた。

 ところが、オリックスは8回に佐藤和弘、藤井康雄の連続二塁打で1点を追加。9回にも福原峰夫が中越え三塁打を放ったことから、なんと1死三塁のチャンスで山沖が打席に立つことになった。

 8年ぶり通算2打席目となった山沖は、捕手の中嶋聡のバットとヘルメットを借り、フルカウントまで粘った後、四球を選んで出塁。見事8年前、三振に倒れたリベンジをはたす。DH制導入後、投手が自力で出塁したのは、1978年8月23日の倉持明(クラウン)以来、12年ぶり3人目の珍事だった。

 その裏、日本ハムの最後の攻撃を無失点に抑え、3対0で完封勝利を飾った山沖は「完封はおまけ。それより打席のほうが緊張しました」と照れることしきりだった。

 山沖の快挙から1年後の1991年。今度はオリックスの助っ人右腕・シュルジーが打席に立った。3例とも阪急&オリックスというのは、よくよくご縁があるものだと痛感させられる。

 同年5月29日の近鉄戦(日生)、1点を追うオリックスは9回に高橋智の左越え3ランで5対3と逆転。土井正三監督は8回まで6安打3失点と好投した先発のルーキー・長谷川滋利にプロ初勝利をプレゼントしようと、その裏、満を持してシュルジーを投入した。この時点で長谷川はデビューから6連敗中とあって、「白星は何よりの薬」という親心からだった。

 さらに「9回裏は守りだけを考えた」という土井監督は、DH・石嶺和彦の代走・飯塚富司を一塁に入れ、ファースト・ブーマーの代走・山森雅文を左翼、レフト・佐藤和弘に代えてシュルジーを「6番投手」としてオーダーに組み込んだ。



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