また、ナチスの強制収容所に入れられた人々の心理を当事者が記録したフランクル『夜と霧』(みすず書房)にも助けられた。

 人々は収容当初、土壇場で恩赦があり「死刑」から逃れられる、と妄想する。やがて自己保存のために感情が消滅し、生きることに意識を集中させる。心理学者の著者は、今の苦しみについて暖房の効いた大ホールで講演する自分の姿をありありと思い浮かべ、苦しみを観察・描写することで、それにとらわれずに済むようになる――。その指摘は、コラムを書くようになった今、いっそう腹に落ちる。

 それだけ頼りにしてきた本を読まずに戻したのは、興味が消えたからではない。むしろ興味が強まり、危機感を覚えたのが原因だ。

 たとえば『半身棺桶』だ。手にしてから戻すまでの数秒間の頭の動きを再現すると、こうなる。

 コラムは自分が考えたり、感じたりしたことを書く。それなのに、同じテーマについて誰かが自分以上に考え抜いたものを読めば、本にすがるのに慣れた自分が丸呑みされ、受け売りし始めるのは避けられない……。

 そうした受け売りは、鵜飼いの鵜が飲み込みかけた魚をその姿のままはき出すようなものだ。ふだん通りスマートホンの画面上に人さし指を滑らせ、コラムの体裁を整えても、自分が書いたことにはならない。

 2度目の『死刑囚の記録』を避けた理由は、より重大だ。

 がんへの対処方針が揺らぎ、壊れかねない。それを恐れたようだった。

 私はがんになってからも「落ち着いている」とよくいわれる。それは自分が決めた対処方針に沿い、心をコントロールしてきたからだという自負がある。ところが、それが「死刑宣告」を受けた人間のほとんどにあることだと本に書かれていれば、話は変わる。大切なのはがんに伴う厄介ごとにいかに対処するかだ。心理学的に何が正しいのかを知ることに、あまり意味はない。自分の努力との関係を疑いだしたら、立ち向かう力が弱まるようにそのときは思えたのだ。

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