「若い時から親分肌で負けず嫌い。強気のピッチングでは内角などを思いっきり攻めていた。勝負には厳しかった。巨人との勝負は特に闘志を燃やしていました。闘志を前面に出していたが、ピッチングの組み立てなどはクレバーな人だった。監督になってからもコーチ、スタッフなど裏方の力を上手に使って選手をうまく使った。ピッチャーの交代、打者の起用などでもコーチらスタッフの話をよく聞き、作戦を立ていた。親分肌で統率力があり、中日阪神楽天とどこへ行っても優勝するなど非常に運のいい人でもあった」

 星野氏を知る球界関係者が話す。

「負けたときの悔しがりよう、すごかったですね。星野さん、すぐ足が出るんです。負けた後、食事に行くじゃないですか。最初は楽しく食べているんですが、急に『あそこでピッチャー変えたほうがよかったかな』と考え込む。そして『クソ』と椅子をけるんですよ。阪神で日本一を争って負けた2003年。3勝2敗で迎えて、先発をシーズンのローテーション通り、伊良部秀輝(元ヤンキース)でいった結果、負けた。彼はあまり調子がよくなかったんです。その次の試合も連敗し、ダイエーに逆転負けし、かなり批判された。悔しがっていてね。『シーズン頑張った伊良部と心中した。それが悪いと言われるとそれまでだ』と言いながらも食事しながら、椅子を蹴っていた」

 その後、伊良部は阪神を離れ、2011年7月にロサンゼルス近郊の自宅で首を吊った状態で死亡しているのが発見されたが、星野氏はこう悔やんでいたという。

「伊良部はプライベートでトラブルを起こすなどして、球界から離れざるを得ない状況だったが、星野さんには何度か連絡をして『野球をしたいんです』と涙ながらに話していたそうです。『救ってやれなかった』と自殺の報を聞いた星野さんは涙していた。『伊良部のおかげで優勝できた。勝負に義理人情はというが、あの日本シリーズでもあいつを投げさせて、男にしてやりたかったんだ』と話していたのが印象的でしたね」(前出の関係者)

次のページ