実は当時、小学校には広い校庭がなく、子どもたちが思い切り運動できる場所はあまり多くなかった。そこで藤田氏は土地を開放することで「東京市(当時)民に運動や園芸を奨励したい」と考えたようだ。

 ちなみに、藤田氏が遊園地の開園のために買い足した土地は実に5万坪。当初購入していた土地の数倍で、もはや「買い足し」というレベルではない。藤田氏のスケールの大きさがうかがえる。

 市民の運動の奨励を目的に作られたとしまえんは、運動施設や園芸施設、さらにプールなどを備えており、家族で過ごすのにはぴったりの場所だったという。また、としまえん広報によると「1931年から33年にかけて、東京市内の小学生遠足で、最も多くの児童が訪れた場所は豊島園だった」ということだから、地域の人にいかに愛されていたかが分かる。

 そんな豊島園も、閉園を余儀なくされた時期があった。1944年、太平洋戦争のためだった。1945年には東京大空襲により、園内の三つの食堂が消失。戦争が深い爪痕を残した。

 しかしそれでも、戦争終結の翌年の1946年、豊島園はたくましく営業を再開。プールに「ウオーターシュート」を設置するなど徐々に大型のアトラクションを増やし、現在の「としまえん」に近い形へと変化していった。

 としまえんがかなり長い歴史をもつことはわかったが、気になるのは昔はどんなアトラクションがあったのかということ。当初の理念が「市民の運動を奨励」だったため、戦前はテニスコートや野球場といった運動施設が充実していた。さらには動物園や温室、音楽堂まであったという。

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