父がホームセンターで買ってきたロープを高鉄棒からぶら下げて綱のぼりをし、終了後は父のマッサージを受けた。「いいかげんな気持ちで筋力トレーニングをしても意味はないよ」と言われると、限界まで自身を追い込んでいく……。「表彰台に立ちたい!」という一心だった。遠征には必ず父が帯同し、試合の後は勝っても負けても反省会。2人で母・安津子さんが撮影した映像を見返し、課題を見つけて翌日からの練習に生かした。

「レスリング以外で手を抜いたわけではない。何でも真剣にやった。また、先生方は絵莉の頑張りを評価してくださってもいたのです。ただ、練習時間が確保できなくなり、年齢を重ねるにしたがって習い事はレスリングに絞られていきました」(修さん)

 修さんが登坂を見ていて考えたことがある。高校卒業と同時に競技を退いた自身の可能性についてだ。高校3年生のころには、いくつかの大学から誘いが来ていた。小林との戦いを振り返り、「敗戦はいつも僅差だった。フォール負けしたことは一度もない」という言葉にはかすかな自負がのぞく。しかし、大学に進んで日本一を目指す気持ちにはならなかったそうだ。

「若いころ、大学に行ってレスリングを続けていたら五輪に出られたかも……と思ったことがありました。しかし、絵莉を見ているうち、そんな気持ちはなくなりました。ここまでやらねば五輪選手になれないのなら、やはり自分は無理だったと思います」(修さん)

 登坂に対し、「まじめにやれ」「頑張れ」「手を抜くな」などの助言は一切不要だった。「故障している時は、少し休んだ方がいい」などとストップをかけるのが周囲の役目。故障で練習できない時期もあったため、修さんは気をもんでもいた。がむしゃらすぎる娘の「体と相談しながら頑張る……」という言葉に、「やっと加減ができるようになったか」と思ったそうだ。

 決勝はハラハラする展開が続いたが、落ち着いていた。同郷で柔道女子70キロ級の金メダリストとなった田知本遥からみせてもらっていた金メダルの感触を胸に、一気に攻めた。

「最後は、ここしかない! と心に決めて(相手の脚を)取りに行きました。よかった。いろんな人の顔が浮かびました。弱い時から信じてくれた家族に感謝です。きょうは、人生で一番の親孝行ができたと思います」(登坂)

 女王・登坂絵莉のリオ五輪物語は、最高の幕切れを迎えた。 

(ライター 若林朋子)