「じゃあ登りまーす!」と元気よく登り始めたクライマー、半分過ぎたあたりまでは「ここまでは順調です」と軽快な足取りをみせる。しかし、3分の2を登ったところからが難所だった。反り返った石垣は「武者返し」と呼ばれ、きつい勾配が侵入者を苦しめる。この石垣の場合、角度は実に70度。クライマーの動きも、おのずと慎重になる。

 進むごとにどんどん急になっていく石垣に苦戦しつつ、なんとか登頂に成功した。クライマーはその感想を次のように話した。

「後半はほぼ垂直できつかった。振り落とされるんじゃないかというくらい。石垣の美しさと、危険性を改めて感じました」

 これを当時は鎧を身に着けて登るのだから、なおさら容易ではなかったはずだ。まさに、難攻不落の名にふさわしい鉄壁の防御だ。では、加藤清正はなぜこの城をつくる必要があったのだろうか。その謎を解くカギは、本丸御殿に隠されていた。

 城主である加藤清正の住まいであり、政務を取り仕切る場所でもあった本丸御殿にはさまざまな部屋があった。全体に格式の高い造りになっているのだが、中でも格段にきらびやかな部屋がある。大広間の最奥にある、「昭君(しょうくん)の間」だ。

 天井は「折り上げ格天井」という最上級の格式。漆塗りで、美しい草花が描かれている。畳も一段高く、しかも鉤型になっている「鉤上段」で、これも格式の高い造りだ。

 さらに目を引くのは、室内に描かれた女性の絵図。これは中国の絶世の美女・王昭君を描いたもので、ここから「昭君の間」と呼ばれるようになった。ではなぜ、わざわざここに王昭君を描いたのか。今回、本城を案内してくれた、熊本市教育委員会の富田紘一さんはこう話す。

「昭君、しょうくん、しょうぐん……実はここは、“将軍”を連れてくる予定だったのではないかな、と。豊臣秀頼を迎えるために」

 当時大坂城にいた秀吉にもしものことがあった時、その息子である秀頼を迎え入れるための場所として、この部屋を用意したのではないか、と言うのだ。

 さらに、その証となりそうなものが、室内の飾り金具の中にある。それが、ふすまの取っ手だ。隣接する若松の間との境のふすまの取っ手に、豊臣家の家紋である桐文が刻まれている。そしてそのまわりには、加藤家の紋である一重菊や桔梗が、四方を守るように配置されているのだ。加藤家が豊臣家を守る――そんな風に、読み解くことができるかもしれない。

 実際に秀頼がこの部屋を訪れることはなかったが、清正がどんな気持ちでこの部屋を造ったのか、気になるところだ。番組ではこのほかにも、数多くの城を築いた秀吉の城に対する思いなど、城をめぐる歴史の裏側を紹介する。城好き、歴史好きにはぜひチェックしていただきたい。