【追悼】山口淑子 李香蘭として過ごした無知と愚かさが口惜しい (3/4) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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【追悼】山口淑子 李香蘭として過ごした無知と愚かさが口惜しい

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山口淑子さんの死去を報じる朝日新聞の号外(PDF版)

山口淑子さんの死去を報じる朝日新聞の号外(PDF版)


 芸能インタビューとメインにした高峰三枝子さん、ファッションが中心の芳村真理さん、そして私と3人の日替わりの司会でした。私は外交官の夫との海外生活も長かったので、政治・社会を番組のテーマにしました。
 
―― この番組の司会が、山口さんを新たな道に導くことになる。ベトナム取材の「サイゴン・レポート」、アラブ・ゲリラの女性闘士ライラ・ハリドのインタビュー、PLOアラファト議長取材、そして元赤軍派幹部の重信房子独占インタビューなど、お昼のワイドシューには異質な活動が、政治家への道を開いたのだ。昭和49(74)年、自民党から参議院選挙に出馬して、当選し、参議院議員に。

 主人が外交官でしたでしょ。テレビでも、ベトナムだ、パレスチナだ、と駆け回っていましたから、当選してすぐに外務委員会に所属して、中東問題を政治活動のテーマにしたんです。同時に自民党アジア・アフリカ問題研究会(AA研)にも入って。戦争の時代をあのような形で過ごしたものですから、アジアもまた私の大事なテーマでした。

 当選の翌年には、自民党訪朝団の一員として訪朝する折に、29年ぶりに北京に降り立つ機会を得ました。李香蘭として過ごし、漢奸の罪を問われた地が近づくにつれ、胸苦しいほどの懐かしさに襲われました。

 北京での夜、後に中日友好協会会長を務められた孫平化先生に厳しい質問を受けました。過去に私が、「日本は祖国、中国は母国」と語ったことの真意を問われたのです。先生は、私が日本人の父と中国人の母の子と誤解されていたようで。結局、両親とも日本人で、私も日本人・山口淑子であったことがご理解いただけ、最後は和やかな会話を交わすことができました。戦後30年近くなって、胸のつかえのほんの一部が氷解した思いでした。

―― テレビ司会者時代の昭和47(72)年、日中国交正常化の共同声明の調印式を放送する最中、司会を務めながらカメラが切り替わるたびに、あふれる涙をぬぐう山口さんの姿が、画面に映し出された。

 イギリスで、そして日本でお会いした、当時イギリス保守党党首だったマーガレット・サッチャーさんは本当に精力的な方でした。来日中も、一分一秒を無駄にせず、現場や工場を視察してまわったんです。「政治に女性も男性もない」とおっしゃられたのが印象的でした。

 反アパルトヘイト議員連盟の事務局長として、南アフリカのネルソン・マンデラさんもお招きしました。27年半も投獄されていたというのに、物静かで品があって、他人に与える印象が温かいんです。根っから人を引きつけるカリスマ性をお持ちなんですね。

 日本の政治家で「昭和の顔」といえば、まず思い浮かぶのは、後藤田正晴さんです。イラクで邦人人質事件が起きたとき、中東問題小委員会で駐日イラク大使をゲストに招いたんです。大使は自国の正当性をぶち上げる長広舌を延々。そうしたら後藤田先生、「あなたを招いたのは、早く人質を返してくれということなんだ。いつ返すんだ!」と、一喝。カミソリのような鋭さに、向こうもタジタジとなってね。
 いま、後藤田さんのような骨のある政治家はいなくなりました。


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