【追悼】山口淑子 李香蘭として過ごした無知と愚かさが口惜しい (2/4) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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【追悼】山口淑子 李香蘭として過ごした無知と愚かさが口惜しい

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山口淑子さんの死去を報じる朝日新聞の号外(PDF版)

山口淑子さんの死去を報じる朝日新聞の号外(PDF版)


 そもそも私は望んで映画女優になったんじゃないんです。北京の女学校に通って、歌の勉強をしていた18歳のころ、父の知人で北支派遣軍の宣撫担当将校をなさっていた方がおみえになってね。前年に新しくできた満映という国策会社に協力していただきたいというお話だったのでね。

 その内容は、音楽映画を企画したんだけど、主演女優が歌えないので、吹き替えをしてくれというものだったのね。私は昭和8(33)年に奉天の放送局から李香蘭の名で歌手デビューしていましたから、歌で協力できるのならと、新京の満映撮影所に行ったんです。

 後から思えば、「五族協和」「日満親善」の文化政策への参加、「つまりはお国のためですよ」という誘いの言葉に、少しは心が動いたのでしょうね……。

 ところが撮影所に着いたら、私の許可もなく「この子を主役にしちゃおう」って。「ちょっとおもちゃ箱をひっくり返したような顔をしているけど、化粧すりゃなんとかなる」なんて言って、主役になっちゃって。

 声をお貸しするだけのつもりだったのが、あれよあれよという間に『蜜月快車』で映画デビュー。「日満提携」で、東宝が撮った”大陸三部作”まで、あっという間だったんですの。

 言い訳にはならないけど、私もあの男の子たちと同じく、戦争に組み込まれていたんだな、と。

―― 山口さんは、日本の大陸進出の大事な局面に、常に立ち会うという稀有な経歴を持つ。満州事変の起きた昭和6(31)年には、現場となった柳条湖の近くに住んでいた。満州建国はその翌年である。昭和12(37)年の盧溝橋事件の際には、北京留学中だった。そして終戦時には上海に。山口さんはここで李香蘭の名を捨てた。戦後は昭和25(50)年にアメリカに渡る。チャップリン、エディット・ピアフなどとも交友があった。日系2世の彫刻家、イサム・ノグチ氏と昭和26(51)年に結婚したが、31(56)年に離婚。33(58)年に外交官の大鷹弘氏と再婚し、夫の任地のミャンマーに。同時に山口さんは芸能活動の第一線から退いた。
 
 幼少のころから、父は私に北京官話(中国の標準語)を教え込んでくれました。それはジャーナリストや通訳といった職業を想定してのことのようでした。私自身も、「無冠の帝王」などと呼ばれる新聞記者や取材記者にあこがれていたんですね。

 政情の不安定だったミャンマー、チャップリンと再会したジュネーブと、夫の任地に同道して、帰国した翌昭和44(69)年に、フジテレビの『3時のあなた』の司会のお話をいただきました。


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