逆に、それができない者に、”新時代の創造者”たる資格はありません。武田信玄や上杉謙信らが、ともに「戦国最強」と謳われるほどの軍団を擁しながら天下を獲ることができなかった最大の理由がそこにあります。彼らは信長のような「破壊者」になれなかったのです。

●「敵の殲滅」が、わが身を滅ぼすことに。

 さて、信長のように「武を以て天下を制す(天下布武)」道を選んだ人物として、中国には項羽(こうう)、ヨーロッパにはナポレオンがいます。この2人もまた、卓越した軍事力で勝利を重ねながら、戦えば戦うほど敵が増え、包囲網が築かれ、味方は消耗する一方で、勝てば勝つほど戦況が悪化していきました。

 事実、天下が目の前にまで迫ったそのとき、信長に生じた一瞬の油断を突かれ、彼は本能寺に散ることになります。本能寺の変の直接の原因は現在に至るまでわかっていませんが、大局的にはこうした信長のやり方に対する不満が方々に拡がり、それが巡り巡って起きたことと言ってよいでしょう。

 信長の場合、「天下布武」のためにはある程度致し方ないとはいえ、やはりこうした「敵を殲滅する」というやり方は、一時的に奏功するように見えても、長い目で見れば、結局我が身を亡ぼすことになる、ということを歴史は語っています。

●「敵の逃げ道を作ってから攻めよ」

 これに対し、秀吉は信長とは対照的です。彼の言葉に、こんなものがあります。「敵の逃げ道を作ってから攻めよ」

 彼は、信長のように「敵を殲滅しよう」とはしません。攻めるにしても、まず「逃げ道」を作ってやってから攻めます。秀吉が備中高松城(毛利勢)を攻めあぐねていたときのこと。ある急報に秀吉は愕然とします。

「上様(信長)、本能寺にて討死!」

 秀吉はただちに毛利と和睦し、京へと急ぎます。これがあの有名な”中国大返し”で、秀吉軍は、京の入口に当たる山崎(淀川と天王山に挟まれた隘路)で、これを迎え討たんとする明智軍と決戦となりました。所謂「山崎合戦(天王山の戦い)」ですが、秀吉軍の想定外の軍事行動に、準備不足の明智軍はまもなく総崩れを起こし、後方の勝竜寺城に立て籠もります。

 しかし、このときすでに秀吉軍も満身創痍。崩壊する明智軍の追撃すらままならない状態でしたが、ここでもし総大将が信長なら「勝竜寺城を包囲し、一兵残らず皆殺しにせよ!」と命じたところでしょう。ところが秀吉は、黒田官兵衛の献策もあって、わざと坂本城の方角の包囲を解かせます。もしここで完全包囲、総攻撃を命じていれば、明智軍も死に物狂いで抵抗したでしょう。たとえ目的を達したとしても自軍の損耗も著しかったに違いありません。

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