●織田信長より、豊臣秀吉のほうが優れている?

 しかし、秀吉なきあとの豊臣家は、ほどなく徳川によって亡ぼされることになりました。このときの「大坂の陣」でも、この「欠囲の陣」が効果を発揮します。家康はまず「冬の陣」で濠(ほり)を埋めさせましたが、にもかかわらず、「夏の陣」では徳川陣営は包囲体制をとりませんでした。埋めた外濠よりはるか南方に布陣します。

「これでは、せっかく外濠を埋めさせた意味がないのでは?」と思われるかもしれません。しかし、こうして城の北側をガラ空きにしておく(欠囲)ことで、戦況が不利になった途端、城を護るべき将兵たちがわらわらと城を棄てて逃げ出します。ひとたび均衡が破れるや、豊臣陣営が一気に総崩れを起こし、攻城戦すらまともに行われぬまま落城したのは、「冬の陣で濠を埋めておいたから」というより、この「欠囲の陣」の効果が大きいものだったのです。

 こうして、戦国の世は、織田から豊臣を経て、徳川の世へと収束していくことになりました。こうして歴史に鑑みるに。「包囲殲滅」をしかけた織田信長が志半ばでたおれ、「欠囲の陣」を以て臨んだ豊臣秀吉・徳川家康に天下が転がりこんでいますから、やはり「欠囲の陣」こそが優れた戦術だということがわかります。「包囲殲滅」は、たとえそこで勝利したとしても結局は身を亡ぼす結果につながるのです。

 しかし、だからといって、信長が秀吉より戦術的に劣っていたかというと、そういうことにはなりません。信長は新時代を切り拓く「破壊者」としての歴史的役割を自覚していましたから、彼にはこの方法しかなかったといえます。