そんな折、本誌の特写として現地に渡った東松は、2カ月間にわたって滞在。前半は基地の周囲に密着し、後半は宮古や石垣の諸島部を巡った。やがて取材を終え、編集部に顔を出した東松の第一声は「沖縄は日本の縮図だというのが行く前からの私の考えだったが、想像以上だった」(69年5月号編集後記)という。

 東松は本誌発表後の8月、作品を再編集して写真集『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』にまとめ、自身が設立した出版社の写研から出版した。東松の沖縄との関わりは、これ以降も深まっていく。

挑発者たち

 社会派が活躍する一方、それと異質な表現が誌面に登場していた。メディア産業の発達にともない写真表現が高度にパターン化するなかで、そのイメージが現実を疎外することに反抗する写真家とその作品群である。

 その嚆矢(こうし)は、68年10月号のリレー連載「日本の生態」に登場した、中平卓馬の「終電車」である。本作は東京から中平の自宅のある逗子までの終電車において、日常的に見る光景を撮影したものだが、画像はひどくブレていて粒子もきわめて粗い。だが、このトーンはきわめて意識的なもので、「30分の1秒で動く車の中で撮れば、ブレはこれくらい生じる、ということは初めから計算していた」(解説欄から)という。それは終電車内の印象的な描写ではなく、人々が持っている終電車に対するビジュアルイメージの解体を狙うものだった。

「写真はピンボケであったり、ブレていたりしてはいけないという定説があるが、ぼくには信じがたい。第一、人間の目ですら物の像をとらえる時、個々の物、個々の像はブレたりピンボケだったりしているのだ。それをイマジネーションが統一し、堅固な像に固定している、ということではないか」

 こうした先鋭的な意見を述べるものの、同欄の作者紹介には、中平は総合誌「現代の眼」の編集者を辞め、いまは「カメラマンとしての独立をめざす」となっている。66年「アサヒグラフ」誌で、寺山修司の連載「街に戦場あり」に、友人の森山大道とともに写真を提供するなどしていたが、一線の写真家としては認められていなかった。だが、その先鋭的な姿勢は写真関係者から注目されつつあったのだ。

 中平の写真観に決定的な影響を与えたのは、東松の企画で、68年6月に開催された日本写真家協会主催の「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」に編纂委員として加わった体験である。幕末の写真渡来から敗戦に至るまでの写真表現を振り返るなか、中平は撮影者さえ判然としない多量の写真記録の直截(ちょくせつ)さのなかに、本来的な写真力がみなぎっていることを見いだし、それがイメージを拒否する根拠となった。

 中平の本誌での発表から1カ月後の11月、同人誌「プロヴォーク」が創刊された。同人は中平と、やはり「写真100年展」の編纂に携わっていた評論家の多木浩二、写真家の高梨豊、詩人の岡田隆彦。加えて日大の写真学科を中退していた柳本尚規がスタッフとして加わっている。また翌69年の2号からは森山大道も同誌に参画した。

 本誌での「プロヴォーク」メンバーの活躍も69年から始まる。リレー連載「日本美新見」に中平はカラー作品「熱海」(3月号)を、柳本は「神戸光芒」(8月号)を発表した。高梨は1年間「写真教室」の連載を持ち、視覚イメージと言葉との関係を丁寧に説いた。

 また、前年に初の写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房)を出版して高く評価されていた森山は、本誌ではじめての連載「アクシデント」を持っている。その初回、1月号は「ある七日間の映像」で、前年11月の第1週のうち、マスメディアで流された映像や伝送写真の複写を中心に構成されている。具体的には北爆停止を発表するジョンソン大統領、次期大統領に決まったニクソンと暗殺されたロバート・ケネディ、南ベトナム解放民族戦線のテロ、NHKの報道番組である。そこに一枚だけ森山のスナップ写真が挿入され、現代社会における現実感のありようを問いかけた。森山は作品解説で次のように宣言した。

「ぼくはこれからの<アクシデント>シリーズで、さまざまな要因から引き起こされた事件にとびこんで、人間の生と死について考えたいと思います。加害者がいて被害者がいる。それを取り巻く社会がある。それらを種々なサイドからカメラで接近することで浮かんでくる『今の時代』をみたいのです」

 ただ、こうした既成の写真のレトリックを否定する実験的姿勢は感心を集めるとともに、多くの読者から「わからない」という戸惑いや拒否反応を生んだ。たとえば9月号の編集後記では、前号の柳本の「神戸光芒」に対して、読者から「こんなものをのせる編集部の見識を疑う」という抗議電話があったと紹介されている。

 そこで本誌は、現実を伝える社会派とこの「わからない」写真との接点を見いだそうと試みている。ことに4月号では「コンポラかリアリズムか」を企画して、社会派として桑原と、沖縄を取材していた嬉野京子の2人、わからない写真家として中平、高梨、そして新倉孝雄の3人が出席して座談会が設けられた。

 ここでまず問われたのが、言葉と写真表現の関係だった。新倉は写真が言葉をトレースすれば「写真とは別のものになってしまう」として否定し、中平は言葉から逸脱したものだけを視覚化するのだと発言している。つまり「写真はことばのための資料」であり、「真実のことばを一つ作るために、写真を資料としてどんどん提出していく」という立場をとる。そして来るべき言葉を待つのだと述べている。

 やがて座談会では、20代前半の若い世代に目立ってきた傾向に話が及ぶ。それが表題にある「コンポラ」あるいは「コンポラ写真」であり、おもに平和だが代わり映えしない、いわばなんでもない日常的な風景や人間関係に目を向けた作品とみられていた。

 参加者のなかでこれに近いとみられたのは新倉と高梨で、新倉は日常性そのものを撮ることに意味があるとし、高梨は日常のなかでなにか起こる気配を受け止めて写真を撮っていると発言している。また桑原は日常のなかでの孤独、不安、疎外感などが表現できる可能性があるのではないかと述べている。最も手厳しいのは中平で、個のなかに自閉した表現ではないかと批判する。

 本誌編集部もまた、コンポラ写真の扱いや評価については戸惑っていた。それに対し、この傾向をいち早く肯定的に捉え、それをフィーチャーしたのは「カメラ毎日」(毎日新聞社)だった。座談会で例として取り上げられた作品も、そのほとんどが同誌の掲載作品だった。では、同誌はコンポラをはじめとする若い写真家をどのように見ていたのだろうか。