より若い広告写真家たちは、誌面においてもその存在感を増していく。それは新しい写真家を発掘するためのページによく表れた。本誌では新人の紹介のために61年5月号から「現代の感情」を、翌62年から4年間は「新人」欄を設け、自由な作品発表と写真家の自作解説、そして評論家の伊藤知巳による写真家評が掲載されている。ここに登場した写真家は計56人に上るが、広告写真家の割合は編集部の予想より多かったようだ。64年6月号の編集後記には、同欄の編集担当者が取り上げるべき硬派な「社会科のフリーランサーがきわめて少ないこと」が最近の悩みの種だと告白しているのである。

 ここに登場した広告写真家で伊藤に絶賛されたのが、63年4月号で作品「黒」を発表した横須賀功光である。資生堂の広告で才能を発揮していた横須賀は、白と黒の衣装を着た女性モデルによるコンポジションを、特有のハイコントラストなライティングによって際立たせた。さらにページ構成はデザイナーの村瀬秀明が、衣装には三宅一生が協力している。

 伊藤は「発想とイメージの新鮮さ」を追求する横須賀の妥協なき姿勢に可能性を感じ、「第三の新人」たちの個性に「正面から太刀打ちできる強烈な個性が、いまようやく私の前に立っている」と書いた。とくに「奈良原の出現以来、もっとも新人らしい新人」だと評した。

 また翌64年11月号の「新人」にはライトパブリシティの篠山紀信が登場して「肖像」を発表している。横須賀、細江、秋山庄太郎、今井、木村、北井三郎の6人の写真家をモデルに、彼らの作風にのっとって、その肖像を撮ったものである。

 伊藤は篠山の感受性の非凡さを認めつつ「容易なことでは自己の正体を他人の前にさらけ出そうとはしない」複雑さを持つ写真家であり、あるいはそれを「極度に恐れる人間」と指摘する。そして本作も、既成の権威に対する血気にみちた反抗と否定とが、いまだ体系的な秩序や論理をもたぬままに、いわば八方破れ的にここに打ち出されていると評した。

 篠山自身もまた、それを認識していたようだ。この一作をもって彼に影響を与えてきた先人たちの仕事、つまり「過去の記憶から生まれた影像」とは決別することを自身の言葉で付しているのである。

「動物」写真家のフロンティア

「新人」欄が始まったのは、伊藤が横須賀について述べたように、「第三の新人」たちに対抗できる才能が待たれていたからだった。だが、それはなかなか見つけられない。その理由について伊藤は、広告業界の活性化や、週刊誌の創刊ラッシュなどによる、写真の商業化と関係があると考えていた。

 つまりこの時代の新人たちは、最初から表現上の制約や了解のなかで、仕事をこなすところから出発しなければならない。そのため多くの自由を与えられた「新人」欄の作品も、全力で取り組みながらも結果的にオーソドックスなものに落ち着いてしまう。だから「通観してみて、とくにズバ抜けた者もいないかわり、とくに目立って質のおちる者もいない」( 63年1月号「私の見た《新人》たち」)のだと、伊藤は分析した。

 こうした時期の本誌に新しい風を吹かせたのは、動物写真という新しいジャンルだった。具体的には、63年にはじまる田中光常の「日本野生動物記」がこの分野を開拓した。

 田中が動物をライフワークとしたのは53年からで、当時の主な撮影地は動物園だった。なぜなら野鳥以外の動物の分布図がなく、機材の選択肢も乏しかったからだ。その半面、ベビーブームの追い風を受けて日本中で動物園の数が増え、施設や動物種も拡充されていた。

 田中はまた、アメリカの動物写真家イーラが出版した『動物の世界』(平凡社 57年)の生き生きとした描写や、ディズニーの「砂漠は生きている」(55年日本公開)などのネイチャードキュメンタリー映画から強い刺激を受けた。そして58年に、動物園で撮りためた作品で「田中光常動物写真展」を開催すると正統派動物写真家として注目された。そこで次のステップとして、本誌で野生動物の撮影を試みるのである。

 田中は連載にあたり、まず朝日新聞社の図書室で、動物に関する各新聞の切り抜きをチェックするなど資料を精査した。さらに全国を調査して、白地図に動物の分布図を書き込みながら撮影を行った。こうした準備を経て連載の第1回は小田原で撮影した夜行性の「モモンガとムササビ」で、これらは幼少期にはじめて自然の怖さを意識させた印象深い動物であった。

「日本野生動物記」は2年で終了したが、シリーズは「続・日本野生動物記」(66、67年)へと続き、やがて海外にも足を延ばして「アメリカ野生動物記」(69年)、「世界野生動物記」(70、71年)に発展、計7年の長期連載となった。さらにこの間、朝日新聞社から、68年には写真集『日本野生動物記』が、70年には同『世界野生動物記』(全5巻)が刊行された。

 この間動物写真は多くの写真ファンを獲得し始めており、ライバル誌の「カメラ毎日」でも岩合徳光の「カメラ博物誌」が64年2月号から始まっている。田中と岩合は、これらの仕事によって、日本のネイチャーフォトの展開にひとつの基礎を築いていくのである。

 また、昆虫や魚など、微細な生物の発生の瞬間をとらえた佐々木崑の連載「小さい生命」が66年から始まっている。読者に新鮮な驚きを与えたその第1回は「サケの稚魚」で、誌面では孵化した直後の姿を見事にとらえている。しかし、この一枚が成功するまでに、ライトの熱で水槽の水温が上がり、シャッターを切る前に魚が煮えてしまったという。

 こうして思いどおりにならない対象を相手に失敗や苦労を重ねながら「小さい生命」の連載は79年6月号まで続いた。さらに約4年間のブランクの後、83年3月号からは「新・小さい生命」として復活し、8年後の91年12月号に終了した。ふたつの連載を合わせるとその連載期間は約22年、計256回は、今後抜かれることのない数字となった。

 60年代前半の本誌は、全体的に高度経済成長期の明るい高揚感を反映している。もちろん社会には矛盾や問題が多く、それは経済成長に比して増大していた。これに続く時代にはこうした流れに、さまざまなレベルで抗する写真家たちが登場する。

 そして彼らの批判は、日本の写真表現の歴史的展開にも向かうのである。