●三尸が天帝に悪行を報告
なぜ、こんなことをしていたかといえば、庚申の日には人間の体の中にいる三尸(さんし)という虫が、寝ている体から抜け出し、天帝に体の主の悪行を報告にいくと考えられていたためである。三尸は上尸・中尸・下尸を総称したもので、上尸は宝貨を、中尸は大食を、下尸は淫欲を好ませる虫といわれ、人間を堕落へ導く一方、チクリもするという始末の悪い輩なのである。しかも、報告がいけば大きな過ちだと300日、小さな過ちでも3日命が縮まると信じられていた。
つまり、この虫を体から出さないために、三尸が動く庚申の日は眠らない必要があったのである。
●商人にとっては必須の行事に
その中で、日本独自に広がっていったのが、青面金剛(しょうめんこんごう)や猿田彦神という三尸を押さえてくれる神を、祭ったことである。これらが彫られた碑は庚申塔と呼ばれ、今も町々の道のそばに鎮座している。また、庚申の「申」が「サル」であることから、三猿も碑に刻まれるようになり、青面金剛と「見ざる・聞かざる・言わざる」の3匹の猿は庚申信仰のシンボルともいえるようになった。
やがて、寿命と健康のために始まった庚申信仰は、さまざまな“欲”を商売にしている商人にとって重要度を増し、いつの間にか商売繁盛のための行事とさえなっていく。
日本全国には有名な庚申信仰の社がいくつも残されている。たとえば、京都の八坂庚申堂、大阪の四天王寺庚申堂、そして東京にも巣鴨庚申堂などがある。加えて、庚申の日に柴又帝釈天と帝釈天像が不思議なめぐりあわせをしたために、帝釈天では庚申の日が縁日とされ、これがきっかけとなったのだろう、三尸が報告に行く天帝が帝釈天と解釈されるに至り、帝釈天と庚申信仰は切ってもきれない縁となった。
今では庚申の日に猿田彦神を参る理由がよくわからないまま、年に6回、3年続けて18回お参りするとよい、といった参拝方法なども行われている。三猿が意味する本来は、三尸が「見ざる・聞かざる・言わざる」であってほしいという、人間の心の弱さを表したものなのである。5月の第3庚申のあたり、ちょっと緩んで三尸につけいられてないようにしたい。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)
※注)正確には十干十二支(じっかんじゅうにし)といい、10の干と12の支の組み合わせで60の数字を表す。十干とは「甲・乙・丙・丁……」と続く10の文字を、十二支とは「子・丑・寅・卯……」という12の文字を表す。これを組み合わせると60通りになり、つまり甲子ではじまり、乙丑、丙寅と続き最後が癸亥となる。