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世の中が太平になった江戸時代には、少し豊かになった人たちが余暇を楽しむようになっていった。とはいえ、旅行や宴会といった楽しみにはそれなりの理由づけが必要だったようで、各地で遊山に出かけるための「講」というものが流行りだした。これは、町内などで会費を集めて、年に何度か代表者をどこかの有名なお寺や神社へ送り出すシステムである。江戸で有名だったのは富士山や三峯神社、石尊大権現(現・大山阿夫利神社/大山寺)、成田山など。一方、人々が集まって宴会を開いていたのが「待講」で、庚申待、二十三夜などの月待講が盛んに行われていた。
●「庚申信仰」のはじまりは
中でも庚申信仰は、今でも各地の催事として残っているほどで、この信仰の名残のない神社仏閣を探すのに苦労するくらいの一大イベントだったのだ。
しかし、最近では知らない人の方が多いと思われるので、まず「庚申信仰」について簡単に説明しておこう。
この信仰は、中国の道教から発生したものだといわれていて、日本では奈良時代の貴族によって取り入れられてものである。江戸時代になりようやく一般庶民の中に浸透し、全国各地、津々浦々まで広がった。寿命が伸び健康を維持するといわれていたため、老若男女を問わず信仰されていたのだろう。
●庚申の日にしてはいけないことは
庚申は、干支(※下記注)で57番目を表す言葉である。余談だが、干支は年や月日、方角などさまざまな分野で、古来、数字のように使われてきた。加えて大きな出来事に名前をつける際に、その年の干支を冠して「壬申の乱」や「戊辰戦争」などと名付けられているが、これは日本だけでなく、中国(清)でも「辛亥革命」、李氏朝鮮でも「甲戌換局」など同様に使われているアジア共通の文化とも言える。
さて、この庚申は日にも使われるため、60日に1回庚申の日が巡ってくる。1年は365日あるわけだから、ほぼ1年に6回庚申の日がある計算になる。2018年はといえば、1/28、3/29、5/28、7/27、9/25、11/24となる。
江戸時代、庚申の日に人々が何をしていたかといえば、決まった場所に集まり夜を徹して青面金剛像や猿田彦神に祈っていたのである。祈るといっても、静かに酒を酌み交わしたり、余興に興じたりしていたようだ。庚申の日には、身をつつしむことが必要で、働くこと、家事、夫婦の営みなどは禁止されていたため、やれることは少なかったと思われる。