お通しはあったりなかったり。「作り出すといろいろ作っちゃう」という料理上手のラビさん
お通しはあったりなかったり。「作り出すといろいろ作っちゃう」という料理上手のラビさん

 京都・出町柳にあった「ほんやら洞」は、京都サブカルの拠点と呼ばれた“伝説”の名物喫茶だ。1972年、フォーク歌手の岡林信康などにより開店。いつしか、多くのミュージシャンや詩人、美術家、文化人たちのたまり場となり、文化の発信拠点となった。

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 しかし、2015年に火事で全焼。多くの人に惜しまれながらも、閉店を余儀なくされた。再建を願う声も多いが、現在のところ実現はしていない。

 国分寺にある「ほんやら洞」は、中山ラビさんがオーナーになってから、17年で40周年を迎えた。本家とはまた別の歴史を積み重ねながら、国分寺の地で、今でも“伝説”の一端を担っている。

 同店の常連でもある、『百年酒場と呼ばれ』著者のはるやまひろぶみさんに、国分寺「ほんやら洞」の魅力を紹介してもらった。

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 国分寺駅南口を出て左へ坂を下っていくと、そこだけ近隣の建物とはちょっと違う空気をぼんやりと放っている、それでいてなんとなく可愛らしい店が目に付く。入口の周りに蔦の絡まるその店の佇まいは、人によってはとても興味を惹かれ「行きたい!」と思わせ、人によっては「自分には行けない」と即断するという、両極端な雰囲気がある。

「ほんやら洞」。

 昼は喫茶で夜は酒場として営業している。

 オーナーである中山ラビさんは、70年代はじめごろは関西を拠点としており、このころすでに京都にあった「ほんやら洞」には出入りしていたという。京都の「ほんやら洞」は開店にフォークの神様、岡林信康さんも関わったといわれ、店内でフォークライブも行われていたし、音楽以外でも演劇、映画、文学などに熱い想いを持っている若者の溜まり場のような、まさにサブカルの拠点ともいえる場所だった。

 75年には同店オーナーが国分寺にも「ほんやら洞」をオープン。そして77年にラビさんが譲り受けることとなる。口車に乗せられた、といったら言い過ぎかもしれないが、決して当時のラビさんはノリノリで店を買ったわけでもなかった。そのころはカフェだった。

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