考えてみれば、多くの患者を診察してきたベテラン医師からの「泰然自若としている」という評価にうそはないだろう。自分の心がけとまったく関係ない、との結論になるとは考えられない。

 心の中のことでいうと、苦しい、つらいといった「うめき声」をコラムに書けば、よりがん患者らしく読者の目に映るのでは、と想像することがある。だが難しいことに、自分の場合、言葉が整い、「きれいごと」ととられそうな言葉のほうが、まず本音だ。

 膵臓がんに比べれば生存率がシビアでない「ほかの臓器であれば」と願った……。疑いを指摘されたころの心境を、そのように4日朝刊の記事で書いた。だが言葉を補うと、それと同時に、どこのがんか白黒つけたい、という気持ちが強かった。どんな手を打つのか、早く判断したい、と。

 変えられることと変えられないこと。自分はそう二つに分け、今から変えられることに関心が向く人間だ。その頭の中をさらけ出すと、変えられないことに対して割り切れない思いを抱える患者像とはズレが生じるのではないか。

 とはいえ、気づいたらこうして言葉を並べ立てているのは、自分のことを理解してほしいとどこかで願っているからだろう。それを人は、本音とか、率直な思いと呼ぶのかもしれない。

 さて、本の話からかなり脱線した。

 私はいわば、言葉という「針」で全身を固めたハリネズミだ。それを緊張させることで自分、そして配偶者を守ろうとしている。その言葉を手に入れるために、本、そして人にすがろうとする。逆に、危うくしかねない言葉は遠ざけようと、本をより好みし、距離を置くようになった。

 これは、こちらから言葉を発するときにも言えることだ。コラムで扱うテーマの興味深さや文章のわかりやすさを、いつの間にか後回しにしていることがある。

 それでも、少しでも相手の心に届く文章にしようと、書いたらまず配偶者に読んでもらうことにしている。今回の原稿もある朝、出勤前の彼女に書きかけを見せた。

次のページ