働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。
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点滴のために退院翌日から2週間、毎日続いていた通院も、ようやく終わった。このあとはまた10日にいっぺんのペースに戻ることになる。体力を使わずに済むのはいいが、自宅にこもりがちな日々をせっかく脱したのだから、たとえインフルエンザや風邪が怖くても、表に出ていかなくては――との思いもある。
などと理由をつけて、今日も私はそば屋めぐりを続けるのである。便利なのは乗用車だ。移動中に吐き気が込み上げてきたり、人工肛門の手当てが必要になったりしても「個室」だから対応しやすいし、何かあれば方針転換して自宅に戻れる。先日は店まで1キロを切ったところで人工肛門にトラブルが発生し、悔しい思いをしながら引き返した。
車で住宅地の店を訪ねるのにコインパーキングは欠かせない。「P」の看板を目印に近づくと、道端まで迫った家並みがそこだけ引っ込んでいる。
もともと老夫婦の住まいでも建っていたのだろうか。櫛(くし)の歯が欠けたような「へこみ」から、施設に移っていく人の「老い」や「死」、それに伴う相続といったことを思い浮かべる。
遺産争いの悲喜こもごもをよそに相続税がとられ、子どもや若者のための予算にあてられることを想像する。税を介して見知らぬ者同士の「死」と「生」がつながる。
私が車を止めたスペースにもまた家が建ち、人の営みが始まるかもしれない。そう考えると、日銭を稼ぐための最小限の設備が取り付けられた無機質な空間に、そこはかとない温かみが感じられるから不思議だ。
先日、夫婦で訪ねた店は民家の居抜きだった。案内された2階の和室にはちゃぶ台がいくつか並び、子どもが畳の上を走り回っていた。窓枠にはまった渦巻き模様のガラス窓が懐かしい。つい配偶者に「昔住んでいたうちにあったのと同じだ」と話しかけた。
例によって注文は「鴨せいろ」だ。運よく近くに駐車場があって助かったと一息ついて、考え直した。
はたしてこれは偶然なのだろうか。それぞれの関係者が誰かの「死」をめぐって似たような事情を抱えていたからではないか、と。