「食」は衣食住の一つで「生」とは切っても切れない。いったん気にしはじめると、あちこちで「死」と「生」のつながりが浮かんできた。
目の前の風景に意味を見出す。「新聞記者なんだから、目と頭は使えるうちに使わなきゃ」と少し得意になっている自分が、急に恥ずかしくなった。ほどなくその考え方が父から来ていることに気づいた。意外だった。
様々な人間関係の中で「生」をリレーするのが親子である。私の父は近所で暮らし、月に何度か訪ねてくる。知り合いにもらった果物を持ってきたり、お互いの体調に触れたりして、10分かそこらで帰っていく。病状によってはたいていの親子と違い、こちらが「お先に失礼」することもありうる。だがそのあたりの込み入った話はしないまま、がんを指摘されてから2年間が過ぎた。
小学生のころ、父が口癖のように言っていたのが「脳みそは生きているうちに使わなきゃ」だった。
当時暮らしていたマンションのベランダ。父は日曜大工の段取りや道具の使い方を工夫しては「脳みそは……」と言った。付き合いはするが、せっかくの日曜日に本を読めないのが惜しい。身につけようと思わないから体は冷えたままで、午後の日差しが陰っていくのがうらめしかった。いま振り返っても、得たものはない気がする。
もともと父とは共通点が少ないほうだと思ってきた。がんでなくなった母が散歩中に「2人とも歩き方がそっくり」と笑い出したことはあったが、それは遺伝による体格からくるものだろう。それだけに、ものの見方の根本的なところが似ているのは意外だった。
夏目漱石の「坊ちゃん」は「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」と始まる。作品に出てくる父親との会話はつっけんどんで、儒学の教えにある「父子親(しん)あり」のニュアンスとはほど遠い。
ただ私は、そんな悪態にも昔からさみしさを感じてきた。大人になったいま考えると、自分の欠点を親のせいにするのは甘えにほかならない。それなのに、その二つをあえて結びつけることで、親を自分の人生につなぎとめようとしている印象を受けたのだ。求めても得られない、けれども求めてしまう。それはさみしいことだ。
親子関係から父のことへと考えが及んだ時、なぜか頭に浮かんだのが「坊ちゃん」だった。父と何かを語り残しているという思いがどこかにあるのだろうか。自分の心の中のことなのに、まだ答えが見つけられずにいる。