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『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、レオナルド・ダ・ヴィンチを診断する。

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【レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452~1519年)】

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)はルネサンスを代表する芸術家であるのみならず、おそらく人類の歴史で最高の天才の一人であろう。

 フィレンツェ郊外ヴィンチ村に生まれ、ヴェロッキオ工房での修業の後、有名な「モナリザ」や「最後の晩餐」、「受胎告知」、「聖アンナと聖母子」など数々の傑作を残した。それだけでなく、ミラノ公ルドヴィゴ・イル・モーロ、ヴァレンティノ公チェーザレ・ボルジア、ヌムール公ジュリアーノ・ディ・メディチ、そしてフランス王フランソワI世の宮廷において、治水や城塞設計などの土木建築家、軍事技術者、さらに舞台監督として重用され、多彩な才能を発揮している。万物に強い好奇心を持ち、知的探求の成果として有名な解剖デッサンを含む膨大な素描と手稿を残している。

眼科医が陰影の斜線から利き手を解析

 面白いことに陰影を描いた斜線はほとんどすべて左上から右下の方向に描かれている。自分で書いてみると分かるが、右手で斜線を引くと、左下がりの線を引くのが自然な手の動きである。レオナルドが左利きであったことは当時から有名で、弟子の記録やヴァザーリの伝記にはっきり記されている。

 では、左利きの画家はどれくらいの割合だろうか。フランスの眼科医Lanthonyは、15世紀以来現代までの画家500人が描いた陰影の斜線から利き手を解析した。その結果、左利きが確定した画家は、Cambiaso、Dufy、Escher、Füssli、Grandville、Holbein、Klee、De La Patelliere、Leonardo da Vinci、Menzel、Montelupo、Paptey、Regnault、VanGoyenの14人(2.8%)で、西洋人男性の平均8%よりもむしろ少なかった。

鏡文字の秘密は?

 レオナルドは膨大な手稿を残している。その中には人生哲学や自然論に加えて、潜水艦やグライダー、ヘリコプター、反射望遠鏡等の設計が含まれるが、多くがすべてそのままでは読みがたい鏡文字である。

 ヴァザーリら伝記作家によると、自分の発見の秘密保持あるいは模倣者の眼を避けるための暗号であるという。しかし、左右の手の運動は対称になる生来的な傾向があり、左利きに限らず左手で文字を書くと、脳にある文字のイメージが自然に裏返しになることがある。もちろんレオナルドも他人に読ませる公文書や手紙は普通の文字で書いたのであろうが、自分自身の備忘録は利き手の左に書きやすい鏡文字になったのかもしれない。

 利き手を生じるメカニズムは、大脳左右両半球のうちいずれが優位であるかによると考えられている。一般に左半球は論理的思考や言語能力に、右半球は空間の認識や造形に関与するという。

 そうなるともっと左利きの絵描きが多そうであるが、一般人と差がないのはなぜだろうか。

 欧米でも日本でも右利きが世間の大半を占めることから、生来的に左利きであっても右利きあるいは両手利きに矯正(強制?)されているのかもしれない。左半球が言語脳、右半球が空間脳であることは脳損傷患者の所見などからほぼ定説であるが、これがなぜか、さらにどうして利き手と結び付くのかという問いに決定的な答えはない。

 左利き画家のリストを見直してみると、謎に満ちた表情のモナリザや洗礼者ヨハネ、安寧たるべき聖母子の背景に胎児や大洪水による破局を描きこんだレオナルド、水が低きから高きに流れ、魚が鳥に変化して飛んでいく騙し絵の大家エッシャーら、一癖も二癖もありそうな画家がそろっている。胎児期や新生児期の左脳の成長遅れが、右脳の特別な発達をもたらすという仮説がある。彼らはかようなシナプスの可塑性により恩恵を受けているのかもしれない。

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