その「クラプトン武道館伝説」の出発点となったのが、74年秋に実現した初来日公演の初日、10月31日のライヴだった。つまり、今からちょうど43年前ということになる。このときは、東京・大阪の計5回。武道館では、11月1日と2日にもステージに立った。この3回が長い年月をかけて91回にまで増えていったわけである。



 ご存知の方も多いと思うが、70年代前半の数年間、クラプトンは公式の場から姿を消していた。理想のバンドだったデレク&ザ・ドミノスの崩壊、叶わぬ恋、友人でもあったジミ・ヘンドリックスの突然の死などが引き金となった過度なドラッグへの依存…。前述のコンサート・フォー・バングラデシュではなんとかやっとギターを弾いているという状態だったらしい。当時の経緯や精神状態は、自叙伝『クラプトン』にも詳しく書かれている。

 音楽仲間や友人たちの支えもあってその深刻な依存から抜け出し、マイアミ録音の『461オーシャン・ブールヴァード』を発表したのが、1974年夏。そこからシングル・カットされた「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が大ヒットを記録するなか、クラプトンはカール・レイドル、イヴォンヌ・エリマンなど6人のミュージシャンとともに日本の土を踏んだのである。このとき彼は29歳だった。

 振り返ってみると、クラプトンが暗い闇のなかを彷徨っていた時期に、レッド・ツェッペリン、シカゴ、エルトン・ジョン、ピンク・フロイド、グランド・ファンク・レイルロード、プロコル・ハルム、テン・イヤーズ・アフター、エマーソン・レイク&パーマー、レオン・ラッセルなど、新しいロックの時代を代表するアーティストの多くが来日をはたしていた。ディープ・パープルは72年、ベック・ボガート&アピスとサンタナは73年に日本録音のライヴ盤を残している。クラプトンの場合は精神的にも物理的にも不可能だったわけだが、ようやく74年秋になっての来日実現は、結果的に「真打ち登場」的な印象を与えることにもなったようだ。
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