岩倉具視は文政8年(1825年)、前権中納言・堀河康親の次男として生まれた。幼少より俊英をうたわれ、14歳で村上源氏久我家流分家の岩倉具慶の養子となる。養家は下級公家ながら、嘉永7年(1857年)には孝明天皇の侍従となる。
文久2年(1862年)8月、帝から辞官落飾を命じられ洛北岩倉村に蟄居。しかし、孝明天皇の逝去により政界に返り咲く。明治維新では、薩長に密勅を下して討幕を正当化し、王政復古の大号令を実現する。維新政府では参与、議定、副総裁、外務卿を歴任。明治4年(1871年)に右大臣になると、日米修好通商条約改定交渉の特命全権大使として使節団を率い、欧米へ向け渡航する。帰国後は征韓論を退けて西南戦争をのりきり、さらに憲法制定を目指した。岩倉具視は頭脳明晰なだけではなく公家には珍しく胆力があり、修羅場を乗り越えてきた志士や敵方である幕臣にも尊敬されたという。
一方、岩倉最晩年の主治医を務めたエルヴィン・フォン・ベルツは1849年、南ドイツに生まれた。普仏戦争の軍医を経て、1876年、東京医学校(現在の東京大学医学部)教授に招聘された。退官するまでの26年間に多くの日本人医師を育て、診療・教育の傍ら様々の臨床的研究を行い、肺ジストマ、蒙古斑の発見、温泉療法の紹介など、業績は極めて多岐にわたる。
■告知の条件
岩倉に対する病状説明で、ベルツは「告知に対する患者の強い希望」「余命認知を望む正当な社会的理由」「告知を受け止められる強い精神力」という、必須の条件を確認して告知を行った。さらに死に至る数週間のターミナルケアを誠実に行っている。
くしくもベルツの死(1913年)の同年、世界で初めて開胸による食道がん切除と食道再建術がトレックにより成し遂げられているが、明治初年には放射線療法も化学療法もない。
岩倉は死の前日、かすれた声で大日本帝国憲法に関する意見を口述する。かくのごとき名医と、稀代の大政治家の邂逅があって、初めてがん告知ができたのであろう。
早川智
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