かつて「ロマン主義の高揚と敗北」といった視点でつづられた西郷の行動。仏文学者鹿島茂は『ドーダの近代史』において、西郷は極めて強力な個性と能力の持ち主であり、討幕までの陽ドーダ「分かりやすい自己顕示」から野に下って西南戦争で敗死するまでの陰ドーダ「屈折したプライド」に切り替わった典型例であるとしている。若いころから「ナポレオン殿」「ワシントン殿」と西洋の偉人に憧れていた西郷だが、彼のフランスや米国への渡航を、持病が妨げていたのではないか。
肥満以外には生来健康だった西郷だが、フィラリアの感染による陰水腫と象皮病という厄介な持病があった。フィラリア症では、蚊によって媒介されたバンクロフト糸状虫の幼虫ミクロフィラリアが、リンパ管・リンパ節に寄生してリンパ組織を破壊し、慢性炎症を起こす。やがて特に下半身の皮下に強い浮腫をきたし、さらには増殖硬化して象の足のようになる。城山での悲劇的な最期の後、首のない遺体を同定できたのは、下半身の変化によるという。感染時期は不明だが、当時の感染状況からして2度目の流罪先だった沖永良部島の可能性が高い。
寄生虫に寄生
フィラリア感染者は全世界で1億2000万人に達し、ヒトの寄生虫疾患ではマラリアに次ぐ頻度である。しかし感染者の中で症状が出現するのは10~20%程度である。しかもミクロフィラリア血症とリンパ浮腫の発症頻度や症状の程度は相関しない。慢性的な持続感染をきたす最大の理由は寄生虫に対し免疫が成立しないことであり、また、感染によりリンパ液の貯留をもたらすVEGFが誘導される。興味深いことに、フィラリア感染患者に抗菌薬ドキシサイクリンを投与すると、フィラリア虫体の消失と同時に上昇していたVEGFも低下する。いかにドキシサイクリンはさまざまな病原体に有効な抗生物質としても、細菌よりはヒトに近い寄生虫に有効であるというのは長く謎であった。
しかし近年、フィラリアには微小な細菌であるリケッチアに近縁のウオルバキアが共生しており、これが宿主への免疫調節やトール様受容体(TRL)2を介したVEGF-Cの誘導に必須であることが分かった。
寄生現象は、細菌から高等動植物まで自然界でごくごくありふれた現象であるが、幕末の偉人の政治姿勢を決めたのが小さな寄生虫であり、さらにその寄生虫に寄生する微生物が病態を決定していたとは、19世紀に生きた西郷さんはもとより、20世紀の間は誰も思いもよらないことだった。