■英傑の死の真相
歴史小説やドラマでは家康の忍びが豊臣の忠臣・加藤清正を毒殺したことになっているが、実際はどうだったのか。
同時代の真言宗の高僧・義演准后の日記では慶長16年5月には「去二十六日より異例」とあり、『清正記』には「身もこかれくろくなられける」とあり、劇症肝炎などによる急性黄疸の可能性がある。一方、徳川方の『当代記』には慶長18年には浅野幸長が梅毒で死んだことを記録するとともに、「八月二十五日紀伊国主浅野紀伊守死去、近年唐瘡(とうがさ)を患い、もってのほか養生のため今年夏中京にあり。去るころ紀伊へ下国、近年養生油断なかりしどもついに以ってかくのごとし。去々年加藤肥後守(中略)死したりしこと、ひとへに好色の故、虚の病と云々」とある。「当代記」には徳川方の結城秀康や徳川忠義も梅毒で死去したとしており、浅野や加藤が豊臣方だから悪く書いたということはなさそうである。
■過去の病気にあらず
さて、大航海時代の鬼っ子と言うべき梅毒は、清正の活躍に先んずること100年、カステリア女王イザベラの援助を得たコロンブスにより新大陸から欧州にもたらされた。梅毒の起源については、聖書の昔から地中海沿岸に存在した梅毒トレポネーマが変異によって強い毒性を獲得したという変異説もあるが、最近のゲノム解析により、新大陸起源説が支持されている。
コロンブスの帰国2年後には、スペインのアラゴン王家の支配するナポリにフランス王シャルル8世が大軍を率いて侵入する。フランス軍といっても、ナポレオン以降の国民軍とは様相を異にする傭兵たちで、兵士のみならず、従者や娼婦が一緒に大移動した。傭兵の支払いは不十分で、占領地での略奪暴行は兵士の権利だった。同時に、彼らは被占領地の娼婦にとっては良い顧客である。そしてフランス軍の間にナポリ病という奇妙な皮膚病が広がった。彼らはイタリア各地でこれを広め、フランス病といわれるようになった。