紙芝居は子どもを主人公に出さんといかんから、鬼太郎にしたんですよ。長兄の子どもの前髪がパラリと額にかかるのがかわいかったので、それもモデルにして、あのキャラクターを創ったんだね。
いくらか人気が出始めたのは“目玉親父”を出してからですよね。紙芝居っていうのは次回も子どもたちを呼べなきゃいけないから、ハラハラドキドキをあおって「この続きは」って終わる。それで鬼太郎が危機一髪のときに、どこからか死んだはずの親爺の声がするところで終わらせた。だけどなんとかつじつまを合わせなきゃいかん。で、体が溶ける病気で死んだお父さんの魂が、目玉に宿って生き返ったことにしたんです。そしたら“目玉親父”をベビーがおもしろがったんですね。
――戦後まもなくから昭和30年代前半まで、子ども文化の主役だった紙芝居は、主役の座を電気紙芝居であるテレビに奪われた。水木さんは、本格的に漫画家を目指して上京し、貸本屋用の単行本作家となった。が、貸本漫画も、少年漫画誌に読者を奪われて衰退。水木さんも執筆の舞台を少年漫画誌に移した。
貸本の読み切り漫画や「ガロ」に「墓場鬼太郎」シリーズなんかを描いてたんだけど、それが「週刊少年マガジン」の編集者の目に入ってたんだね。だけど、最初の依頼は「宇宙モノ」という制約があったので、断った。半年後に「別冊少年マガジン」自由に描いていいと言われたので、テレビの中に自由にできる少年の話で、「テレビくん」を昭和40(65)年に描いたら、これが講談社児童漫画賞。で、「テレビくん」発表直後からマガジンの本誌で「鬼太郎」を連載し始めて、あっという間に忙しくなっちゃった。
もう寝てもさめても次の漫画のことばかり。高度経済成長時代の日本をどう見ていたか? 私もお金をもうけさせてもらって具合がよくなりましたけど、世の中を大局的に考える余裕なんでありませんでした。売れない時代から大して関心もなかったしねえ。ていうのも、結局、国なんてのは、自分らの都合で国民を軍隊にひっぱっていっていじめる、そんな思いがあったからね。