漫画家の水木しげるさんが11月30日、93年の生涯に幕を閉じた。週刊朝日(2009年2月13日号)では、連載「昭和から遺言」で水木さんにインタビューしている。ニュースサイト「dot.」は、その全文を再掲載する。
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――戦争で九死に一生を得て、戦後は大好きな絵の世界に生きた漫画家の水木しげるさん。ゲゲゲが誘う妖怪の世界からは、おろかしくも戦争を繰り返す人間界が不気味に映る。
小学校に、天皇の御真影が掲げられていてね、私らは毎日、これを拝んでから教室に入らなきゃいかんかったの。だけど私は、朝はゆっくりと起きて、おまけにたっぷり飯を食べなければ気が済まないって性質でしたから、登校する頃には1時間目が終わっちゃうんだね。それで、御真影へのお辞儀もそこそこに教室に行こうとすると、校長先生に見つかって「こらこら」って怒られちゃうわけ。
兵隊にとられたときも、銃の手入れをサボると「天皇陛下から戴いた銃を何だと思っているのか」と、ぶん殴られましたね。天皇の名前を借りて威張る人がいっぱいいて、ずいぶんといじめられました。
あの戦争の責任が天皇にあるって言うんじゃないよ。軍部が天皇の名を借りて暴走して、政治がそれを制御できなかったから戦争に突入していったんだもの。でも、天皇を神様に祭り上げた時代というのはおかしいね。御真影を拝ませて、ベビー(子どもたち)を軍隊で使いやすいように育てるつてのは、間違っていたんじゃないですか?
戦争のおかげで、えらい目にあいましたからね、水木サン(時に自分をこう呼ぶ)の昭和からの遺言は、戦争をするなってことです。てなことで、話が終わったんですけど……。えっ、まだ?
――水木しげるさんが応召したのは、昭和18(1943)年、芸大進学を志して日大付属大阪中学夜間部に在籍していた21歳のときだった。父の故郷であり、幼少期を過ごした鳥取の部隊に配属され、その後南太平洋の激戦地であるラバウル(現パプアニューギニア領ニューブリテン島)に派遣された。
そのラバウルでも、私らの中隊は運の悪いことに、最も敵に近い基地に送られたんだね。私らの中隊を輸送した船が、ラバウルにたどり着いた最後の輸送船となったくらいだから、補給もなくてイモの茎や草の根まで食いました。