問題は、「40代なのに20代に見えること」が、「美魔女」当人が考えるほど幅広く評価されない点にあります。男性の多くは、「美しくあること」は本物の20代女性に求め、40代女性には「母性」や「癒やし」を期待します。「美魔女」より「白髪染めの代金で子どもを塾にやるお母さん」に好感を持つのです。
女性たちも、「47歳なりのベスト」を追いかける小泉今日子のほうを支持します。たとえ体重が増えても無理なダイエットをしないと小泉今日子は語っていました。「女優」としてのスキルを日々向上させているので、「年相応」であることを抵抗なく受けいれられるのです。小泉今日子にとって、「加齢」は「劣化」ではありません。こういうあり方は「齢を重ねる勇気」を同性に与えます。
ただし、40代を生きるのが困難なのは、「モテ」のための「自分磨き」に励んでいた「赤文字系」OGに限りません。「青文字系」の中年雑誌「GLOW」で活躍する女性が、社会的達成をとげた女性ばかりということは先に述べました。彼女たちの言動は、たしかに人間としての魅力に溢れています。反面、「プロ中のプロ」が固める「GLOW」の誌面には、「女子」の匂いが感じられません。「かわいいものにこだわる、何ものにもなれない女性」を生きさせてくれる雰囲気が、かつての「InRed」にはありました。「GLOW」には、そういう感触が希薄です。「40歳を過ぎて、社会の求めに応じられない女性は哀れである」――そんなプレッシャーに、「GLOW」とその読者はさらされているように感じます。
30代は、肉体的にも、社会との関わり方においても、20代の延長として何とかやっていかれます。しかし40代になるとそうはいきません。懸命に努力して体重を維持しても、肉のつきかたが明らかに変化します。人間関係のうえでも、自分が輝くことより、後進を光らせることを優先させるべきケースが増えてきます。それでいて、「他人から称賛されたい願望」が40代では抜けきりません。
50歳になると、「20代とおなじ外見を持つこと」に諦めがつくようです。社会生活においても、他人に認められたい渇きがやわらぎ、余裕が出ます。「たとえ人から称賛されなくても、私は私」という心境に達するのです。そうなると、「社会の期待に応えなければ」という重圧からも解放されます。
小泉今日子は、加藤治子や大楠道代といった「大人の女優」の「少女のみたいな魅力」について語っています(注2)。50歳以上の女性のほうが、40代よりかえって「女子の顔」を持ちやすいと、小泉今日子も思っているようです。まもなく五十路を迎える彼女自身、これからもう一度「女子」としてのかわいらしさを深めていくことでしょう。
それでは、50歳になった「美魔女」はどうなるでしょうか? 「20代に見えること」の限界に行きあたった後、どういう方向に彼女たちが赴くか、興味は尽きません。あるいは、かつてないような女性のありかたを開拓するのではないか。私は秘かに、それを期待しています。
※女性誌と小泉今日子のかかわりについては、ツィッター上でsarumi氏からご教示を受けました。感謝します。
※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました
注1 この回の「ビートたけしのTVタックル」の内容は、下記でに紹介されている
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150414-00000050-mycomj-ent
注2 『蒼井優 8740DIARY 2011―2014』(集英社 2014年)など
助川 幸逸郎(すけがわ・こういちろう)
1967年生まれ。著述家・日本文学研究者。横浜市立大学・東海大学などで非常勤講師。文学、映画、ファッションといった多様なコンテンツを、斬新な切り口で相互に関わらせ、前例のないタイプの著述・講演活動を展開している。主な著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『光源氏になってはいけない』『謎の村上春樹』(以上、プレジデント社)など