●何を尊び何を恐れるか
―確かにその二つの場面は、怪獣や人の死そのものの怖さ以上に
背筋が震えました。ひとたびことが起きたときに、人は何をよすがに、どう行動するか、というのは作品の大きなテーマの一つではないでしょうか?
宮部 そうですね。先ほど話した、昔の怪獣ものや特撮時代劇は、表の派手な筋書きの奥に、何かしらのテーマ、寓意を持っていたなあと、今になって思います。決して解答をわかりやすい言葉で示してはくれないのですが、だけど子供心にも、背後にある大きなメッセージのようなものについて漠然と感じていました。
あとは時代小説のうち、市井ものではなく、一つの藩など舞台を大きく設定した作品を書くと、「その土地にとっての神とは何か」ということが、テーマに据えようと意識せずとも、自然と出てきてしまうんです。以前『孤宿の人』という、架空の藩の話を書いた時もそうでしたが、そこに生きる人が、何を尊んで何を恐れているのかと考えると、その土地で拝まれている“神様”について触れずにはいられない。どんな時代小説の中でも「お寺さん」は非常に大事な存在として出てきますしね。時代小説を書くということ自体がそういうことなのかもしれません。
神とは何かということを、私も格別勉強して書こうと思ったわけではありません。昔見た様々な作品には、当たり前のように込められていたことです。だから、自分の中にもある、日本のそもそもの宗教観とか自然観、死生観に逆らわず、大事なところをしっかり押さえて舞台を設定し、素直に物語を作っていくと、テーマを意識しなくてもそういう要素がにじみ出てくるのだと実感しています。
『荒神』では対立する二つの藩に、浄土宗のお寺、いわゆる念仏寺と、法華宗のお寺を両方出しました。東北のこのような設定で両者が共存できたかどうかというと現実的には厳しい。でも(主人公格の女性である)朱音(あかね)に言わせたい台詞がある都合で、法華筋のお寺もなかったわけではない、ということにしました。それはフィクションの便利なところですね。
●群像劇としての魅力
―老若男女、身分も立場も様々なキャラクターがたくさん登場する群像劇としても、読み応えがあります。
宮部 それは嬉しいです。私が大勢の登場人物を出すのが好きなのは、いろいろな方向から出来事を見せられるから。それを極限までやったのが『ソロモンの偽証』でした。視点を、登場人物全員、同じ回数だけ作れはしなくても、この人物はこういう物の見方をするのかと読者に納得してもらえる程度には書きたいと常に思っています。そうなるとどんどん話が長くなってしまうのですが(笑)。
主人公と言えるのかな、小日向直弥(こびなたなおや)という人物はある種の狂言回しです。でも書き始めると全体のバランスを取る中で次第に彼の立ち位置が変わってきました。結果的に他とは違う面白い役回りになったかもしれません。彼は武士だけど腕が立つわけではない人物。『荒神』の時代設定である元禄太平の世では、武芸に秀でるよりも、知恵の回る人や経済観念のある人が出世するようになる。つまり江戸幕府にも官僚の時代が来るわけです。東北の小藩にもそれが芽吹いています。
朱音はいわゆる正統派のヒロインです。優しくて、きれいで、でも数奇な人生を送っている。私は初めてそういう女性像を書いたので、ワクワクしました。それから直弥と一緒に山に入ることになったやじというある種の間者は、ただのお供ではなくなり、構想よりふくらんでいったキャラクターです。そのほかに格好いいおじいちゃんは、私の大好きなキャラです。