「4人のスタッフを育成していますが、ギリシャ人は面倒なことはやりたがらず、私の提案に対しすぐ『出来ない』『無理』と言う。でも私は許さない。『じゃあ、どうやったら出来るか考えて』と出来ることを前提で頭を絞ってもらう」

 井本がどの赴任地でも現地スタッフに厳しい要求をするのは「自分たち次第で何千人もの子どもたちの未来が変わる。だから、一瞬たりとも立ち止まってはならない」という信念があるからだ。

 アフリカ諸国では、血で血を洗うような悲惨な現場に足を踏み入れ、混沌とした社会でプロジェクトがなかなか上手くいかなかったこともあった。心が折れそうになった時は必ず、アトランタ五輪の舞台を思い浮かべたという。

「競技生活で培った絶対に諦めない心と、最高の結果を求める信念は、この道でも同じ。どんな困難があろうと諦めずに突き進み、子どもたちの未来に最高の結果を出すのが、私の任務」

 東京都江東区で生まれた。両親は設計事務所を経営。姉、弟がいる。4100グラムで生まれたせいか子どものころから体が大きく、地域のガキ大将だった。一方弱者には優しく、いじめられる子を守り、障害のある子はおぶって幼稚園に通った。母・三恵子(70)が言う。

「善悪について厳しく躾けたつもりはないのですが、我が家の教育方針は“人と比べない”。だから、お誕生日会は分け隔てなくクラス全員を招待。その代わりプレゼント無しで、料理は大皿メニュー」

 水泳を始めたのは3歳から。体が大きい分すぐに頭角を現した。幼稚園の卒園文集に早くも「将来はオリンピック選手」と書いている。

 小学校6年生の時にジュニアオリンピックで、学童新記録を樹立し優勝。直後に行われたシニアの大会でも3位につけた。すると、当時日本の水泳界を席巻していた大阪のスイミングスクール「イトマン」から勧誘を受けた。

 12歳の少女は胸が潰れるほどに悩んだ。オリンピック選手を目指すならイトマンで練習した方がいいが、親元を離れるのは恐怖でしかない。一方母は密かに大阪行きを願い、父は幼い娘を手放すことに大反対だった。だが両親は、意見が違っていては娘を悩ますばかりと、それぞれの思いは口に出さず、「自分の進路は自分で決めなさい」と告げた。しばらく悩んだ少女は、泣きじゃくりながら「大阪に行く」と宣言。一昨年亡くなった父はその時、娘に背を向け肩を震わせていたという。(文/吉井妙子)                                                          
※記事の続きは「AERA 2020年3月23日号」でご覧いただけます。