数年、上方ものばかりをやるうちに、“小之助”“ミニ之助”とは言われなくなった。ところが、40歳になる10日ほど前、人生で最も大きな試練が立ちはだかった。師匠が病に倒れたのだ。
「福岡の博多座に出演中のことで、僕が急遽、代役を務めました。でも1年半後には、それまで常に一緒に出演していた仲間が、散り散りになってしまった。師匠という大きくて立派な傘の中に入れていただいていたのが、みんなそれぞれに自分の傘をさして出ていかなきゃいけない状態になったんです。仕事のなかった時期には、ミュージカル、翻訳劇、朗読劇……それまで足を踏み入れたことのないジャンルの舞台にもいろいろと挑戦しました(苦笑)」
新しい世界で揉まれる中、なんのために歌舞伎をやっていたのかを自問自答し、「ただ師匠に褒められたい一心で頑張っていたのかもしれない」という結論に思い至った。
「そのとき、これからは自分の意思で前に進まなければダメだとも思った。この先、『頑張んなくてもいいや』と思ったら終わるぞ、と。そんな根本的なことに、40過ぎて気づいたんだから、情けない話です(苦笑)」
様々なエピソードを、身ぶり手ぶりを交えながら、表情豊かに語る。そうして、「歌舞伎の最大の魅力は、役に自分を投じていると、ほんの一瞬だけでも、自分を崇高な魂に導いてくれる“何か”を感じるときがあること」と言いながら、“何か”を思い出すように目を細めた。
「とはいえ、崇高な感覚になった次の瞬間には、『今夜何を食べようか』なんてことを考えてしまうのが人間なんですが(笑)。いずれにせよ、僕はその魂を未来につないでいきたい。倅に受け継がれれば父親としては嬉しいけれど、歌舞伎俳優としては、もっともっといろんな人に伝えたいと思う。それが師匠に対するご恩返しなのかな、と」
(菊地陽子)
※週刊朝日 2020年3月27日号