石川:亡くなった水上勉先生のおうちに遊びに行ったときに、フィリピンパブの本がいっぱいあるので、「先生、なんでこんなにフィリピンパブの本があるの?」って聞いたら、「今度小説の中に書きたいと思ってね」っておっしゃるんです。あのとき80歳ぐらいだったのかな。“今”の風俗を探ってらしたんですね。
林:そういえば水上勉先生を偲ぶ会のとき、石川さんとお会いしましたよね。お嬢さんとご一緒でした。水上先生、石川さゆりさんのファンでいらしたんですか。
石川:私の音楽プロデューサーが心筋梗塞になりまして、同じころ先生も天安門事件に遭遇して帰ってきて心筋梗塞になられて。「梁山泊」(京都の京料理店)のカウンターで二人が偶然一緒になったんですって。同じような薬を飲んでたこともあって知り合いになって、私の話も出て、石川さゆりが先生の『越前竹人形』を歌いたがってるという話になったんです。それまで水上先生はご自身の作品を歌にする許可をお出しにならなかったんですが、「石川さゆりだったらいいよ」と言ってくださって。
林:まあ、やっぱりファンだったんですね。
石川:そんなことがご縁で、いろいろお話をうかがいに行ったり、若狭の一滴文庫という先生のプライベート劇場で、筑紫哲也さんとか灰谷健次郎さんとか皆さんと年に一度イベントをやることになって、私もその仲間に入れていただきました。「先生に歌をプレゼントしよう」ということになって、「飢餓海峡」という歌をつくったり、そんなこんなで可愛がっていただきました。
林:まあ、そんなことがあったんですか。知らなかったです。先生はわりと気難しいというか、編集者も、怖くて近づけない人と可愛がってもらった人とに分かれていたような気がしますけど、先生が亡くなる前に石川さゆりさんと楽しい交流があったと聞いてうれしくなりました。
石川:東御(長野県)におうちをつくられてからも、娘を連れてうかがうと、「佐保里(娘さんの名)、火をおこすぞ。木を持ってきて自分でやってみなさい」と言って火をおこさせたり、「あそこの川にクレソンが生えてるから採ってきなさい」とか。