哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
* * *
ウイルス禍については、原稿を書いてから媒体に掲載されるまでのわずかのタイムラグに、書いたことが「遠い昔の話」として反古にされるリスクがある。思えば「桜を見る会」もそうだった(ああ、もう遠い昔のことのようだ)。「3日前の未来予測」が「旧聞」に化すことに怯えながら原稿を書くことが日常化する日が来るとは少し前までは思ってもいなかった。これでは人々の時間意識が縮減するのもやむを得ない。
人類はある時「世界の起源」から「世界の終末」に及ぶ永劫の流れの中のうちに自らの生を位置づける能力を獲得した。およそ2500年前のことである。おのれの人生が須臾(しゅゆ)であること、生涯かけて踏破しうる空間が芥子粒(けしつぶ)ほどのものであることを思い知ったことから人間はその知性的・感情的・霊的成熟を始めた。人間性なるものを基礎づけたのは実にこの広々とした時間意識なのである。
しかし、私たちは今そんな悠長な時間意識のうちにはいない。あまりに物事の変化が速すぎて、遠い目をして往時を回想したり、遥かな未来を望見する余裕がないのである。AI導入後の雇用環境はどう変わるだろうかというような「悠長な」話をしていたら、パンデミックでそれ以前にいくつかの業界がまるごと消失というような事態が切迫してきたからである。
今の若い人に「あなたの老後の生活計画はどのようなものですか」とアンケートを取ろうとしたら、何と愚かなことを訊くのかと突き飛ばされる覚悟が要る。輪郭の定かならぬ未来の希望を語る作業にさえ、ほとんどSF的な想像力が必要だからだ。
しかし、過去を顧み、未来に備えるという営みが虚しく思えるというのはほとんど「文明史的危機」と言わなければならない。人の一生はどれほど長く感じられようと実は刹那に過ぎないという覚知から人間はその進化を始めた。だとすれば、昨日ははやかき消え、明日は寸前まで予測不能という「無視界飛行」を強いられている現代人にはもう「一生」という概念そのものにリアリティーがなくなっている。そんな人に人間的成熟を求めるのは論理的に不可能である。そして、たしかにそれはもう杞憂ではなくなっている。
※AERA 2020年3月30日号