撮影当時55歳。すでにお笑い界の“重鎮”だったが、朝日新聞の取材で自身を代表するギャグ「アイーン」ポーズを見せてくれた (c)朝日新聞社
撮影当時55歳。すでにお笑い界の“重鎮”だったが、朝日新聞の取材で自身を代表するギャグ「アイーン」ポーズを見せてくれた (c)朝日新聞社
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マキタスポーツ/1970年、山梨県生まれ。芸人、ミュージシャン、俳優、著述家など多彩な顔を持つ。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』など(撮影/写真部・松永卓也)
マキタスポーツ/1970年、山梨県生まれ。芸人、ミュージシャン、俳優、著述家など多彩な顔を持つ。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』など(撮影/写真部・松永卓也)

 志村けんさんの訃報は、多くの人に衝撃を与えた。お笑い芸人で俳優、ミュージシャンとしても活躍するマキタスポーツさんも、その一人。AERA 2020年4月13日号では、志村さんのお笑いの影響を多分に受けてきたというマキタスポーツさんが、その存在の「尊さ」を語った。

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 気がついたら僕の記憶の中には、股間に白鳥の首をつけ、バレリーナに扮し、「イッチョメ、イッチョメ、ワーオ」と合いの手を入れながら踊る志村けんさんがいた。僕はドリフが大好きだった。志村さんが登場する前、加藤茶さんが一発ギャグで人気者になったのも知っている。子どもだったので荒井注さんをおもしろいと思ったことはなかった。「8時だョ!全員集合」を毎週楽しみに見ていた。

 しかし、「オレたちひょうきん族」がスタートすると、つい浮気をしてしまう。ドリフの志村さんは最高だったけど、ビートたけしさんの登場で、僕の中にお笑いの地殻変動が起きた。当時、「オレたちひょうきん族」を見ていないと学校で友達の会話についていけなかった。時代はバブル景気の真っ只中。社会にはお金と余裕があり、みんないい意味で浮かれていた。テレビの制作現場も自由にドラスティックに、あらゆることを笑いに変えてやろうという空気で満ち溢れていたと聞く。

 そんな時代のテレビを、僕はまるでお笑いの革命を見ているような気持ちで眺めていた。そして、お笑いの真似事をやって高校の同級生を笑わしていた。つまり、僕はテレビの中の革命を、ある種、野次馬的に見ながら、山梨の田舎から東京のテレビのど真ん中に向けて、石を投げてその革命に参加している気分になっていた。大人ぶりたい気持ちもあって、子どもでも分かる、あの、バカバカしい志村さんのお笑いと、距離をとってしまっていたのだ。

 当時のお笑い界は、経済と並行して右肩上がりの急成長を遂げていた。そして、1990年代の前半だろうか。お笑い芸人が使う業界用語。例えば、「ボケ」「ツッコミ」「噛む」「スベる」が一般の人にも浸透。お笑いの知識やルールが一般化し、社会のお笑いリテラシーが急激に向上する。吉本興業が東京に進出、大阪でカリスマ的人気を誇っていたダウンタウンが全国区となり、ハイコンテクストな笑いを追求する時代が到来する。こうして、ドリフに代表される「ビジュアルで視覚的に魅せる芸」から、漫才、フリートークに代表される「言葉の芸」がテレビの主流となってゆく。

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