「四半世紀はすごく長い。彼女はその時間で、自分の生き方を調整していった。表舞台から姿を消して普通の人に戻るが、復帰の時はまた違った形で蘇った。それができたのは、彼女に『普通の感覚』があったから。東京に生まれ育って、ちゃんと生活してきたことこそが、枯れなかった理由なんじゃないか。彼女の人生は怒濤だったから、25年間という休息は必要だったかもしれない。自分に滋養を与えていた25年だった気がする」

 小林は1953年、技術者で会社経営の父・禎二(ていじ)と美容師の母・澄子(すみこ)のもと、東京・大森に生まれた。神奈川県に近い東京南部の海沿いの街で、当時は第一京浜国道あたりまでが海だった。京浜東北線を挟んで山側の閑静な住宅街にはかつて作家や芸術家が多く住み、海側には町工場が点在する。そんな街で何不自由なく過ごした幼少期だったが、大好きだった7歳年上の姉が小林が小学校高学年の時に結婚して家を出ると、父は経営する工場がある大宮に行きっぱなし、母は美容院経営が忙しく、一人の時間が長くなった。読書、そして映画館通いが孤独な少女の心を慰めた。

 内向的、そして少し反抗的な長身の美少女は、中3の冬、ひとりで日比谷みゆき座にロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」を観に行った時にスカウトの目にとまる。72年にアイドル歌手としてデビュー。しかしヒット曲には恵まれなかった。

 世間に小林を印象付けたのは、76年のパルコの広告だった。

(文/小柳暁子)

※記事の続きは「AERA 2020年5月18日号」でご覧いただけます。

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