「ウイルスを撲滅しようとする発想自体が、そもそも間違っています。ウイルスと生物は地球上に共存しているもの。いやでも付き合っていくしかない。撲滅することができないという事実を認識した上で、他のリスクとのバランスを考え、全体の被害を最小化する道を考えないといけないんです」
どんなに気をつけていても、感染するリスクは誰にでもある。
「たまたま交通事故に遭った人を、自己責任だとバッシングしませんよね? それなのにコロナに関しては、感染は個人の責任とされ、まるで『罪人』のような扱いになっている。感染すれば罪人になってしまうから、それを避けるために自粛をする。コロナが怖いという以上に、社会的な制裁を恐れて自粛している。著しく不健全な状態です」
自粛警察や相互監視といった同調圧力、感染者に対するバッシングや差別などを含めて、「コロナフォビア」と呼んだのは、社会学者で法政大学特任研究員の明戸隆浩(あけどたかひろ)さんだ。
ヘイトスピーチやレイシズムに詳しい明戸さんは、恐怖心から出発して差別に至る構図が「まさにフォビア」と指摘する。
フォビア(phobia)とは嫌悪、忌避を意味する。ホモフォビア(同性愛嫌悪)、イスラムフォビア(イスラム嫌悪)などと同様に、恐怖から始まってその人たちを遠ざけ差別し排除する言動が見られるからだ。
「例えば、アメリカでの9.11後のイスラムフォビアでは、テロ対策やセキュリティーの名の下に、人種的プロファイリング、つまり見かけがムスリムっぽいとつかまえて取り調べるという露骨なことが行われました。テロ対策のためにはこれが必要だという大義名分があって、結果的に差別が正当化された」
現代社会において「差別は良くないこと」であるのは誰もが認めているところだ。それでも差別が「解禁」されるのはどんなときか。それは「見かけ上の正しさ」が呼び出されるときだという。自粛警察で言えば、「ルールを守らない人が感染を広げている」という大義名分がある。
さらに明戸さんは、政府や地方自治体の側も、この自主的な相互監視システムをどこか期待している、と指摘する。
「休業要請中に営業したパチンコ店が公表されましたが、本来は店名の公表だけでは何の罰にもならないはず。市民間での批判、バッシングが起こって、それがプレッシャーになるという前提があるから、ペナルティーになるわけですよね」
こうしたバッシングや他罰感情は全方位に向くのではなく、社会的に弱いものに対して向けられることを明戸さんは懸念する。ライブハウス、夜の街、パチンコ店などはその典型だった。
近々、全国で緊急事態宣言が解除されるとしても、本格的に終息するまで新型コロナウイルスの感染が局所的に発生することは、十分に予想される。そのとき、また攻撃され切り捨てられる人たちが出ないように、一刻も早くコロナフォビアを食い止める必要がある。(編集部・高橋有紀、小長光哲郎)
※AERA 2020年6月1日号より抜粋