人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、明日はわが身の「水害」について。
【数字で見える化】過去20年で洪水浸水リスクが高い地域に「人」と「家」が急増
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濁流が絶え間なく目の前を流れていく。あたりのものを呑みつくすその濁流を、目の前で見た幼い日の記憶がある。
父は転勤族で、二、三年おきに移る先がなぜか川に縁があった。仙台の広瀬川、大阪の大和川、東京の多摩川、みな歩いて十分の地に一級河川が流れていた。
河鹿の声が聞こえてきたり、砂と同じ色の千鳥の卵を見つけたり、多摩川の河川敷のゴルフ場への渡し船に乗せてもらったりした。夕暮れ時には魚がとびはねるのを見た。いい想い出しかないが、一度だけ恐怖にさらされたことがある。
小学五年生だった。梅雨の雨が続いて、子供心に心配だったのだろう。
父母にかくれて傘をさし、大和川めがけて降りていった。目の前に堤防が見えた時、普段は聞こえることのない振動と、微かにゴーッという音を聞いた。そこでやめておけばよかったのに怖いものみたさで通い馴れた土堤をかけのぼると、足もと近くまでみたこともない濁流が河川敷をのみこみ、すぐ先の橋脚を洗っていた。危険水位の印があって、たしかすれすれだった。
足がガクガクして慌てて堤防を下り、家まで水たまりを避けて帰り、父母にはみつからぬよう二階の自分の部屋へもどり、ずっといたようなふりをした。
さらに大学を出てNHKのアナウンサーになり、名古屋へ転勤して間もなく、伊勢湾台風が直撃した。三階の自室の窓ガラスが弓なりになり、ヒーッという女性の悲鳴のような風の音が聞こえた。
翌日からアノラックに長靴でデンスケ(当時の長方型の重い録音機)を肩に取材に出ると木曽、長良、揖斐の三大河川が氾濫、海抜ゼロメートル地帯は水浸しになっていた。土堤の道を通ると水没した家屋の屋根で助けを求める人が手を振り、牛や馬の死体が浮いていた。その匂いのひどさ。
その時学んだことがある。災害は報道された段階ですでに峠を過ぎていて、ほんとうにひどいところでは連絡すらとれない。気象庁の警報なども後追いが多くなり、台風も水害も気がついた時はもう、十分ほどで一メートルも水かさが増えている。伊勢湾台風の時も、ラジオは「どこそこの瓦が飛んだ」ぐらいの情報しか伝えていなかった。