めったに表面化しないが、政治が検察首脳人事に口を出すことはある。この本の著者である伊藤栄樹元検事総長もその「被害者」の一人だ。
手元に、公正取引委員会委員長やプロ野球コミッショナーを歴任した根来泰周(ねごろ・やすちか)元東京高検検事長が書き残した「検事総長の椅子」と題する覚書がある。検察首脳人事や政界事件処理の舞台裏のエピソードを記憶をベースに書き起こし、後輩の法務省幹部に託したものだ。
その中に、根来氏が人事課長時代、中曽根内閣の秦野章法相が、伊藤氏の検事総長人事構想に介入したとする記述がある。この事実は報道されていない。
「伊藤栄樹氏は、司法修習生1期で、藤島昭氏は、2期であるが、年齢的には、藤島氏の方が上である。秦野章法務大臣が藤島氏をまず検事総長にし、その後任に、伊藤栄樹氏を据えたらどうか、そうするために伊藤栄樹氏を法務事務次官から大阪高検検事長に異動させる案はどうか、と言い出したことがあったようだが、伊藤氏も抵抗し、藤島氏も最高裁判所判事に転出するつもりであったから、もとよりそのような無理筋を承知するはずがなく幻に終わった」
引用にある「法務事務次官から大阪高検検事長」は、根来氏の記憶違いで「次長検事から大阪高検検事長」であろう。1982年11月から83年12月までの秦野氏の大臣在任中、伊藤氏は最高検次長検事だった。伊藤氏は秦野氏が退任した83年12月、東京高検検事長となり、85年12月検事総長になった。
秦野氏は、ロッキード事件で5億円の受託収賄罪に問われた田中角栄元首相に対する一審判決(1983年10月)が近づく中、法相に起用され、公然と「親田中」を表明。秦野氏が検察に論告求刑をさせないよう指揮権発動するのではないか、との観測まで流れていた。
検察にとっては、絶対に負けられない裁判だった。負ければ、自民党最大派閥を率い、歴代内閣のキングメーカーとして君臨していた田中氏から、戦前の帝人事件並みの「検察ファッショ」批判を受けるのは必至と考えていたからだ。伊藤氏は次長検事としてロッキード公判を指揮していた。