渡辺とゆりやんの普段の活動を知らない外国人にとって、この動画は単なる「クオリティの高いなりきり動画」に見える。それは笑えるようなものではないし、笑うべきものでもない。だから、映像として優れていて格好良いというふうに受け取られる。「これはパロディではない(笑えるものではない)」とは、あくまでも褒め言葉として言われている。
この点について「日本ではまだ他人の容姿をあざ笑う文化が残っているため、渡辺直美のようなふくよかな女性が気取った態度で踊っていることが笑いのネタになっている。海外(アメリカ)ではそれがない。日本の笑いは遅れている。海外を見習うべきだ」というようなことを主張する人もいる。
だが、個人的には、この事例についてそのような主張をすることには違和感がある。渡辺やゆりやんが激しく踊るこの動画を見てクスッと笑ってしまった人は、彼女たちの容姿の悪さをあざ笑っているのかというと、必ずしもそうとは限らないと思うからだ。
多くの日本人は、彼女たちがプロの芸人であり、人を笑わせるのを本業にしていることを知っている。そんな彼女たちが、この動画では真剣な表情で本物になりきってパフォーマンスをしている。そのこと自体が「なんでそこまで本気なんだよ」「何をしてるんだよ」というツッコミの対象になり、笑いを生んでいる。
つまり、ここにあるのは「格好良すぎて笑える」という状態だ。「格好良いものは笑えるものではない」という西洋的な二元論を超えた世界がそこには広がっている。
我々日本人が格好良さと滑稽さを同時に味わえるのは、その背景にある文脈を共有しているからだ。ネタ番組でオリエンタルラジオが『Perfect Human』という楽曲を真剣に歌って話題になっていたのもこれと同じだ。「ネタ番組なのに」という前提が含まれているからこそ、ボケ要素ゼロのパフォーマンスが笑いに結びつくのである。
現代の日本の笑いは総じてこのようにハイコンテクスト(言語化されない含みが多い)なものであるため、その認識がない人にとっては誤解されやすい側面がある。渡辺とゆりやんの動画で私たちが笑えるのは、日本の笑いの後進性ではなく、日本の笑いの豊かさを示している。(お笑い評論家・ラリー遠田)