県民約12万人が死亡したといわれる沖縄地上戦。ひめゆり学徒隊は、この悲劇の象徴的な存在といえる。今でも、生き残った元学徒たちの苦しみは消えない。一昨年、戦後世代として初めてひめゆり平和祈念資料館の館長に就任した普天間朝佳さんは、元学徒たちの悲嘆に寄り添い、話を聞いてきた。終戦から75年。静かな闘志で思いを伝え続ける。
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沖縄県糸満市にある、ひめゆり平和祈念資料館の第四展示室。1945年の沖縄戦で命を落とした沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女生徒と教員らの遺影が展示されている。犠牲者の視線が、見る者の魂を揺さぶる。
この2校から動員された222人の女生徒と18人の教員が、沖縄陸軍病院──横穴をはりめぐらした壕にすぎない──に軍命で看護要員として組織されたのが、いわゆる「ひめゆり学徒隊」である。看護活動中に米軍から壕への激しい攻撃を受け死亡したり、学徒隊の解散命令が出た後に逃げまどい、途中で戦火に巻き込まれたりして次々と命を落とした。陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊136人と、その他の在校生ら91人、合わせて227人が地上戦で死亡した。
一般的にあまり認識されていないが、「ひめゆり学徒隊」のなかで、遺族の元に戻った遺骨はほとんどない。さらに亡くなる際の状況や、亡くなった場所がどこなのか、生き残った学徒の証言などを総合しても、沖縄戦で死亡した227人のうち70人ほどは判然としない。最期の地となったはずの地点に行っても骨が見つからなかったケースや、あるいは複数の骨と交ざっていて誰のものかわからないことも多い。県民の4人に1人が巻き込まれ、12万人が死亡したといわれる沖縄地上戦のすさまじさや悲惨さの一端を物語る。
遺影の一部は、集合写真から接写されたものだったり、小学生の頃の写真だったりする。中には写真がなく氏名だけのものもある。沖縄戦で写真が焼失したりしたためだ。
戦後世代初の館長であり、8代目となる普天間朝佳(60)の撮影をこの第四展示室でとお願いすると、丁寧な口調でその提案を断ってきた。