「ひめゆり同窓会の方々がこの資料館を開館されたときに、みなさん協力的だったのですが、一人の御遺族のお父様が、娘の遺影を展示することに反対されていたんです。娘を見せ物にされるような気持ちになられたんでしょう。生き残った娘たちはどんどん成長して結婚したり、仕事についたり、教員になったりしているのに、自分の娘は帰ってこないという気持ちがおありになるのは、当然です。その気持ちも大切にしたいのです」

 ひめゆり平和祈念資料館は悲劇を記録し、後世に伝えようと、ひめゆり同窓会が資金集め等をして、終戦44年後の1989年に建てられた。九十数人いたひめゆり学徒隊の生存者のうち、30人ほどが資料館の開設に積極的に関わり、資料館をつくったあとは、「証言員」として、九死に一生を得て生き残った体験を、来館者に全身全霊で語り続けた。

 資料館の敷地に入ると「ひめゆりの塔」があり、その前面に「伊原第三外科壕」が保存され、常時、献花ができる。この壕では、学徒隊解散命令が日本軍から出た数時間後に米軍のガス弾攻撃を受け、約80人が死亡している。そのうち、ひめゆり学徒38人、教員4人。普天間はこの壕の前での撮影でも尻を向けないように気を配った。

 沖縄にはひめゆり学徒隊以外にも、白梅学徒隊やなごらん学徒隊など、21校すべての旧制中学で学徒隊が編成された。その中で、ひめゆりという名前が全国区になったのは、1953年に公開された香川京子主演の映画「ひめゆりの塔」の影響も大きい。この映画の記録的ヒットをきっかけに、ひめゆり学徒隊は次々と映画や小説、戯曲化された。国民が「敗戦」にうちひしがれている時期に、けなげな乙女たちが非業の死を遂げたという、殉国美談として消費された面も大きいというのが専門家らの分析だ。普天間の大学の後輩で、記者として普天間の協力を得ながら沖縄戦の記録に携わってきた「琉球新報」編集局写真映像部長の小那覇安剛(54)はこう話す。

「元引率教師や学徒隊の生存者は、“殉国美談”との闘いの連続だったのではないかと感じることがあります」

 生存者の中には当時の話すらしてくれない人や、資料館へ来られない人もいる。戦後、彼女たちは負い目を抱えて生きてきた。30年にわたり、ひめゆり学徒隊の生存者に寄り添い続けてきた普天間は、
「ひめゆり学徒隊の半分以上が沖縄戦で無残に亡くなっているので、自分だけ生き残ってしまった、戦場で大怪我をした友人を結果的に置きざりにしてしまったという慙愧の念に、元学徒の方々は今もとらわれ続けています。心の傷は癒されることはないんです」
 と言って、第四展示室を見渡した。生き残った人たちには、友人が死んだことを「美しい話」にはしてはいけないという気持ちがあった。普天間もまた、殉国美談にしないことを信念に歩んできた。

(文・藤井誠二)                                                 

※記事の続きは「AERA 2020年8月10-17日号」でご覧いただけます。

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