65年、メレヨン島からの生還者と遺族で構成される「全国メレヨン会」が発足。それ以降、慰霊、遺骨収集、島民との交流などの活動を行っている。

 メレヨン島の「戦わない戦争」を記録したいと願った。「全国メレヨン会」の関係者に電話をかけ、手紙を書き、ファクスを送り、取材を始めた。

 03年6月には生還者1人、遺族3人とともに、再びメレヨン島に行く機会を得た。遺骨収集、台風災害見舞い、そして慰霊の旅だった。

 現地を2度訪ねたライターとして数年をかけて6人の生還者を取材した(現在は5人が故人)。生還者のインタビューで欠かせない質問があった。極限に際した時、「生と死を分けたものは一体何か?」と──。(亡くなった方の年齢は取材当時。五十音順)

 三重県志摩市の石野晋さん(77)は運のよさと言った。

「運がよかった。上司に恵まれた。大発(80人ほど乗船可能な船)に乗っていたという運や。食糧不足が深刻化したころ、ようやく潜水艦が入ってきた。大発は潜水艦に積んだ食糧を島に陸揚げする。その時、ワシが乗っていた大発の下に25俵の米を隠した。その後、幕舎の前に野菜やカボチャが植えてあった場所に移動させた。それで助かったな。規則違反はわかっている。良心が痛む? それはな、『役得』や」

 福島県白河市の大塚君夫さん(89)は、中国から転戦したことを挙げた。

「中国で少年兵として捕虜を銃剣で殺すところを見せられました。自分にはできないと感じたのです。それが嫌で、ちょうど『潜水艦乗組員希望者』を募っていたので、そちらを志願しました。そこが生死の分かれ目です。本当はトラック諸島に行くはずだったのが、なぜかメレヨンに行くことになりました。それも運命の分かれ目で、生と死を分けたことです」

 奈良県生駒郡の沖中慶二さん(83)は、ウイスキーのロックを傾けながらこう話した。

「木のぼりが得意だった。ヤシの木に実がなっとるでしょ。統制品だったあれを、こっそり夜、取るわけですよ。それを隠して自分の大切な食糧にした。軍隊という組織のなかには目の前で兵隊が死んでいっても知らん顔をする人もいる。ところが『それではいかん、供養しよう』、そう言って優しい気持ちを持っていた人ほど早く死んだ。死んだ兵隊の墓標を作るために体力を奪われたのかもしれん。メレヨンであった事実を、それがどんなにひどいことであってもきちんと伝えるべきだ。最近この年になって思う。死んだ戦友の心にこたえる道だとね」

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