ギャンブル好きで知られる直木賞作家・黒川博行氏の連載『出たとこ勝負』。今回は抽象彫刻について。
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京都芸大彫刻科の一学年は十人だった。入学直後にひとりが退学したので、わたしの同級生は九人。全学年で約四十人と、院生五、六人が智積院の墓地のそばの分教場のような木造校舎で学んでいたが、学校に来るのは二十人もいなかった。作品を制作して提出すれば単位をもらえるから、たいていの学生が遊んでいるか、バイトをしている。わたしは雀荘にいないときはイベントのフィギュア造りや鉄筋工で下宿の家賃や食費を稼いでいた。
入学したころ、東京芸大彫刻科は具象、京都芸大彫刻科は抽象作品が主だったから、校舎で眼にするのは抽象の石彫、木彫、鉄彫(真鍮[しんちゅう]やステンレスも)がほとんどだった。
当時もいまも世間のひとにとってもっとも判(わか)りにくい美術作品は抽象彫刻だと思うが、わたしも入学したころ、抽象彫刻というものがなんたるかを、まったく理解できなかった。教授はいったいなにをいっているのか、先輩たちはいったいなにを考えて日々こつこつと“わけの分からない”ものを作っているのか。おれはほんまに自分の作品を作れるんか──。
不安いっぱいでカリキュラムをこなすうちに(そう、一回生がおわるころだった)、ある日、突然、霧が晴れるように抽象彫刻のおもしろさが分かった。
それはつまり“シンプルであれ”だった。作品を一目見て、制作者の狙いが分かるもの。発想の原点が明確なもの。造形に無駄がなく、素材の特性を生かしているもの。その形がスマートである必要はなく、シンプルでアートを感じさせるもの(このアートというやつがずいぶんむずかしいのだが)──。
たとえば鉄彫なら、意味もなく鉄筋や鉄板をねじ曲げて熔接(ようせつ)し、それが塔のようになったから『バベル』というふうなタイトルをつけたものはアートではなく、単なるガラクタにすぎない。