〈生理現象で頼んだら待てという。(中略)(おなかが)痛かったので更にお願いしたら、(中略)5分待てと来た。(中略)何でもねえのに頼むか!!〉(68年3月8日)
いつしか、桜井さんは事件の筋書きどおりに自供させられてしまう。その際、A刑事はさまざまな情報を桜井さんに与えて、自供を誘導していったという。
「共犯の杉山が泣いて『殺した』と認めただとか、目撃者がいるだとか、嘘発見器で嘘が出たなどと、とてもうまく誘導されて自分が犯人と思い込むようになってしまいました」(桜井さん)
獄中ノートにはこんなことも書かれている。
〈公判で一つ聞いてみよう。"嘘発見器"の事を。Aさんは俺が嘘を言っていると出たと言ったが、もしあの時言った事が嘘と出たのなら、あの機械は"嘘作成器"〉(68年1月12日)
〈誰が桜井昌司を見た!! と言ったんだよAさん!! 余りにも汚い調べ方にあらためて驚いた〉(68年5月13日)
この獄中ノートも何度か刑務官らに内容を見られていたという。翌日になると、獄中ノートの内容をなぜかA刑事らが知っているということは何度もあった。そんなことが続き、桜井さんは獄中ノートの一部を暗号で書いている。
「警察、検察、刑務官とみんな一緒になって自分を犯人に仕立てようとしていることがわかったから、暗号で本心を書き残そうとした。暗号は三つのパターンがありました。でも、獄中ノートは偶然に見つかったもので、暗号を自分でも忘れていました。その暗号を、塚越弁護士の奥さんが解読してくださったんです」(桜井さん)
ノートには、「うその自白」をした桜井さんが、次第にその重要性に気づき始める記述もある。
〈私は罪を犯したから認めたのでなく、(中略)認めなくては助からぬと言われたからに他ならないのだ。(中略)権力が作った事実の為にひざまずくしかないと判断したからだ〉(68年1月10日)
〈強殺(強盗殺人)の罪をかぶれば皆んなの頭の中から私自身が犯した窃盗の事は消え去る。(中略)偽りのないあの頃の俺の心だった〉(68年4月18日)
〈嘘の供述というものを話し出した時、まさか本物の犯人にされるとは〉(68年1月19日)
「あの頃は若かったから、窃盗なんてちんけなことで捕まるのが格好悪いと思っていた。殺人を認めても後で本当のことがわかり、おとがめなしと勝手に信じて認めた。A刑事は罪を認めれば死刑にならない、認めないなら死刑と言い始めた。だから、供述調書にも認めるサインをした。もう権力の言いなりになって死刑を逃れるしかないという心境になりました」(桜井さん)
獄中ノートには、やがて「死刑」「極刑」という言葉が頻繁に登場する。「死」への恐怖が襲い、絶望感にさいなまれる。
〈やっぱり恐いんだな。死刑になる事が〉(68年1月4日)
〈警察が見事に犯人を作り出した。俺が罪を犯したのは警察の調べ机の上でだ!!(中略)よくこうも何でも悪い方へばっかりくっつけたもんだ。本当に感心する〉(68年8月14日)
しかし、「無実」を証明するための裁判だったはずが、桜井さんや杉山さんを見たという目撃者たちが証言台で本当のことのように目撃証言を述べたり、虚偽の供述調書を作成したA刑事らは誘導や脅迫行為を桜井さんにしたことはないという証言を繰り返したりした。
70年10月6日、水戸地裁は桜井さんと杉山さんに無期懲役の判決を言い渡す。絶望したのか、その日の獄中ノートにはこうある。
〈もう日記を書くのは止めた......。今日で終りだ......〉
だが、それでも桜井さんはへこたれなかった。
「今も真犯人を捕まえてやるという思いは変わらない。判決では謝罪もなかった。自分の経験に基づき、取り調べの可視化など今後も訴えていきます」(桜井さん)
事件発生から44年。検察側は控訴を見送る方針だという。 (本誌・今西憲之、村岡正浩)