ジャーナリストの田原総一朗氏(c)朝日新聞社
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イラスト/ウノ・カマキリ
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 先日、中曽根康弘氏の内閣・自民党合同葬が執り行われた。その中曽根氏が唱えた「専守防衛」に絡んで、ジャーナリストの田原総一朗氏は日本の安全保障について真剣に取り組む時期に来ていると訴える。

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 10月17日午後2時から東京のグランドプリンスホテル新高輪で、中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬が行われて、参列した。

 中曽根内閣が発足したのは1982年11月。官房長官の後藤田正晴氏をはじめ田中派の議員6人が閣僚に就任したので、マスメディアは「田中曽根内閣」と批判した。

 当時、私は中曽根氏に「なぜ田中派のキーパーソンである後藤田を官房長官にしたのか」と問うた。「だから田中曽根内閣とたたかれるのだ」と言いたかったのである。

 中曽根氏は「後藤田はとても信頼できる、骨のある人物で、それに政治姿勢が私と正反対だからだ」と答えた。タカ派の中曽根首相に対し、後藤田氏は超ハト派だからバランスが取れるというのである。

 たしかに後藤田氏は大変なハト派で、私に「自分は戦時中、台湾で陸軍将校だった。米軍は当然、台湾に大規模な攻撃を仕掛けてくると覚悟していたのだが、台湾を素通りして、沖縄に総攻撃をかけて、沖縄県民の4人に1人が死亡した。台湾の我々のために沖縄県民が犠牲になったわけで、大変申し訳なくて、沖縄には行けないでいる」と、涙を出さんばかりの顔つきで述懐し、中曽根氏のタカ派的言動にことごとく反対した。

 また、中曽根氏は防衛庁長官のときに、「日本は専守防衛を守る」と言い切った。現在でもこの言葉が一部には通用しているようだが、「専守防衛」とは、敵が日本に直接攻撃を仕掛けてきたときに戦う、ということで、つまり本土決戦。実は極めて危険な姿勢なのである。

 太平洋戦争末期、米軍に沖縄が占領されると、軍部は本土決戦を主張した。そうなれば、1千万~2千万人の犠牲が出る。だから当時の鈴木貫太郎首相は、本土決戦を避けるためにポツダム宣言を受け入れた。敗戦を決断したのである。

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自衛隊は戦わないのだ