ダイエー時代の山田秋親 (c)朝日新聞社
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「来年はとりあえず新人王を目指しますが、ゆくゆくは200勝で名球会に入りたいです」。

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 入団発表の席でこんなスケールの大きな抱負を口にしたのが、2000年のダイエーのドラフト2位(逆指名枠)右腕・山田秋親(立命大)だ。

 ふつうなら“ビッグマウス”と言われるところだが、当時の山田は、本当に名球会入りしてもおかしくないと予感させるほどのオーラに満ちていた。

 最速153キロの速球を武器に、日米大学野球第1戦で大会新の15奪三振を記録し、シドニー五輪にも出場。アマチュアナンバーワン投手として複数球団の激しい争奪戦の末、ダイエーが逆指名を取りつけた。ダイエーはこの年、2年連続リーグ優勝をはたしたが、二桁勝利投手ゼロという“真のエース”不在状態。それだけに“未来のエース”山田にかかる期待は大きかった。

 そして、「二桁勝利は堅い」と多くの評論家が口を揃えた1年目、開幕4戦目の3月28日の近鉄戦でプロ初先発初登板をはたした山田は、7回まで無失点の好投。8回に2本塁打を浴びて降板したものの、見事デビュー戦を白星で飾り、王貞治監督を「初めてにしてはよく投げた。1回(満塁)のピンチを抑えるなんて、大したものを持っているね」と喜ばせた。

 だが、その後は結果を出せず、2軍落ち。7月8日の近鉄戦でプロ初完封の2勝目を挙げたが、結局、2勝止まりで新人王になれなかった。

「自分の中の甘さが出ました。この経験を生かして頑張ります」と雪辱を期した山田だったが、2年目も5勝に終わり、3年目からリリーフに。04年にセットアッパーとしてキャリアハイの35試合に登板したが、05年以降は相次ぐ故障で登板も減り、08年オフに戦力外通告を受けた。右肩手術後、四国・九州ILの福岡を経て、10年にロッテに入団も、12年オフに2度目の戦力外通告。プロでは通算16勝に終わり、目標の200勝には遠く及ばなかった。

 山田とは逆に、入団発表での抱負が、ビッグマウスと受け止められたのに、見事有言実行をはたしたのが、00年の阪神4位・赤星憲広(JR東日本)だ。

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「新庄選手の穴は、僕が埋めます」