作家の高橋源一郎さんの新著『たのしい知識 ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』(朝日新書)は、高橋さんが開こうとしている私塾の「教科書」なのだという。学校嫌いの高橋さんが考える「知」や「先生」の役割とは? 高橋さんにお話を伺った。

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――なぜ教科書を作ろうと思ったんでしょうか。

 2005年から明治学院大学国際学部の先生になりました。引き受けたものの、何を教えたらいいのかわからない。ぼくは大学紛争の時期に入学して、ほぼ授業を受けないまま満期除籍ですから、大学という場所が何をするところなのか知らなかったのです。

 そもそも、いわゆる「学者」ではないぼくが大学で教える意味はなんだろう。そこから、考えはじめました。たとえば、自分はどうやって学んできたのか。誰に教わって作家になったんだろう、と。

――どんな先生に教わったのか気になります。

 自分の先生を本の中に見つけて、自分から学びに行ったんです。

 たとえば、カフカ。カフカの小説を読んで、それを書いたカフカ先生のところに通う。けれども、カフカ先生はもう死んでいるし、当たり前だけれど、なかなか教えてくれない。でも、読んでいると、先生はこういうことを言ってらっしゃるんだろう、こういう風に書きなさいって言ってるんだなとわかってくる。それが、小説家にとって「学ぶ」ということです。

 おそらく、「学ぶ」ことの本質は、そこにあると思います。それぞれの学生にとって、自分が学ぶべき「先生」はきっとどこかにいる。ぼくは、そこまでのつなぎ役で、そこへ案内してあげればいい。「先生」の見つけ方を教える「先生」ですね。

 結局、教育の基本は自分で学ぶということだと思います。大学で学ぶ学生のほとんどは、その学問の専門家になるわけではありません。国際学部は特に、普通に就職していく人がほとんどですからね。では、卒業したら大学で学んだことは無になるのか。そうではないようにしたかった。ぼくがゼミを通して身につけてもらおうと思ったのは、簡単に言うと「質問する力」です。
 

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「答えを見つける力」ではなく「質問する力」が大切