古い航空写真や地形図を見ると、日本中に天然の良港があったことがわかる。津々浦々、河口に形成されたラグーンがそれだ。ラグーンに形成された遺跡や古墳時代の洞窟遺跡の発見が相次ぎ、人々が船を操り、活発に往来していたようすが明らかになってきた。
海沿いの遺跡や内陸の遺跡との関係性、文字史料、水中遺跡を合わせての歴史研究が進められているという。『海から読み解く日本古代史』の著者、近江俊秀氏が、その一例を紹介する。
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■離れた場所なのに同じ文化…の謎
方言や食文化など日本列島には多様な地域文化が認められるが、地域の枠を飛び越え共通の文化が認められることがある。たとえば「海女漁」と呼ばれる素潜り潜水漁がそれである。石川県輪島市や三重県の鳥羽や志摩が有名であるが、このほかにも太平洋側、日本海側の漁村に点在する。民俗学者の大林太良によると、海女漁の分布に重なるようにして、頭上運搬など漁業とは直接関係のない独特な地域文化があるそうで、大林はこれらの文化の背景に「互いに海を行き来して結びついていた海民集団」が海沿いに存在したことを指摘した。
■遺跡や遺物からわかる海民の足取り
こうした海民集団の足取りは、記録に乏しい古代にも探ることができる。遺跡や遺物の中には彼らの活動痕跡を留めるものがあるのだ。
宮城県石巻市の五松山洞窟遺跡は北上川の河口付近の断崖に穿かれた、わずか5平方メートルほどの海食洞窟だが、その狭い洞窟から19体分もの人骨が発見された。関東の古墳時代人と北海道アイヌと形質的によく似た人骨で、区別されることなくごちゃ混ぜに洞窟に放り込まれていた。
また金銅装の大刀や鉄製の冑、貝製の腕輪など豊富な遺物が出土した。大刀や冑は近畿製、貝輪は伊豆諸島産のオオツタノハ製と、いずれも遠隔地からもたらされたものだ。
その墓の形状も海民集団の活動を示す。海食洞窟を墓とする例は、房総半島や三浦半島、伊豆半島で多く認められる。いずれも半島の先端付近で、石巻は半島の先端ではないが、三陸海岸の付け根に位置する天然の良港で、これらの地域と船を介したつながりが想定される。