「数字を残しても二軍にすら呼ばれず、他球団だったらどうなのかという思いがありました。24歳でしたし、まだまだやっていけるという気持ちで、トライアウトに参加しました」

 17年の11月15日。運命のトライアウトが行われる球場に入ると、小学1年で野球を始めてから、甲子園でも巨人在籍時代にも味わったことのない空気に驚かされた。

「まさに異次元の空間でした。『おはようございます』『おつかれさまでした』のあいさつ以外は選手同士で言葉を交わすことはなく、たとえ知った選手でも『頑張ろう』と励ますこともない。ノックもみんな無言で、ゲームでヒットを打っても誰も喜びません。すべての空気が、僕が知っている野球の世界と違いました」

 プロ野球選手としての「生死」がかかる場、参加者は仲間ではないのだから当然と言えば当然だろう。

 独特の緊張感の中で、結果は4打数1安打。俊足強肩を評価され、社会人野球や独立リーグのチームからは声がかかった。運動神経抜群の若者とあって、球場に新人発掘に来ていた自衛隊や警察、消防からも就職案内のパンフレットを渡された。

 こうした意外な“スカウト”を受けた一方で、希望したNPBの球団からは連絡が来なかった。

「ただただ、悔しかったですよ。でも、まだやれるという思いは全く変わらず、もう一度トライアウトを受けようと決めました。簡単じゃないことはわかっていました。でも、やってみなければわからないじゃないですか」

 18年に、社会人野球チームを持つ企業に入社。もう一度トライアウトを受けるという条件を受け入れてくれたのが決め手だった。

 とび職として毎朝4時半に起きて都内の建設現場に出向いた。車で帰宅して、練習は21時ごろから。自主練習が主体で、バッティングセンターで日付が変わるまで打ち込むこともあった。厳しい環境でも、モチベーションは下がることはなかった。

 そして同年11月13日、迎えた2回目のトライアウト。「異次元の空間」は2回目でも慣れなかった。盗塁を1つ決め持ち味は出したが、無安打に終わった。

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「もういいかな」と思う自分がいた